高那須山の樹海

十巴

高那須山

 今から百年ほど昔のことだろうか、世界が石炭の動力で回っていたころの話である。高那須山たかなすやまと言う標高1776メートルにして二つの県の境をまたぐ雄大な山があった。その頃の人たちの間で高那須山という名前は幾度となく繰り返されてきた。なにも日本で山登りが流行していたということではない。なんでも高那須山の麓に広がる森では、ツガやヒノキが大人が二人手を横に広げたくらいの間隔で太陽を覆い隠してしまうほどに長く伸びており、その薄暗い感じやどこを切り取っても代り映えしない風景が入り込んだ者の間隔を狂わせ、迷いに迷った末に、ついには息絶えてしまい、人里の地を二度と踏めなくなるというのだ。ある者の話では森では毎年数十人が行方不明となっており、その者たちの生気を吸い上げて木々はさらに大きく成長して迷い込んだ者をよりいっそう出られなくすると話すのだから恐ろしいことこの上ない。高那須の樹海に踏み入れてはならない、このことはその当時の人にとっては共通の認識であったと言えよう。

 恐怖の効いた噂の拡散性は止められるものではない。あちらへめぐり、こちらへめぐりとしている間に尾びれや背びれがくっついて、いつのときからか高那須の樹海は自殺の名所という話が持ち上がってきた。なるほど、死に場所を探しているような人間にとっては誰にも見つけられずひっそりと土に還っていけるような場所はうってつけかもしれない。これに困ったのは地元の人間たちである。高那須山から流れ出る清流を求めて古い時代から栄えていた麓の町は観光名所のようになっていて、高那須山に悪い印象が付くことはできるだけ避けたかったのだ。役所の人間たちが考えあぐねた結果、実に単純な解決策として樹海への入り口に小さな小屋を作って監視役を置くことが決定した。樹海といっても登山道が中にあり、登山口から入って十数分行ったところにある橋を使って川を渡るまでは比較的木々も少ない。川は泳いで渡るには少々流れが急で川幅も広く、樹海の中で誰にも見つからないよう自殺しようとする人間が溺れて下流で発見され騒動になる危険をわざわざ冒すとも思えず、小屋の前を通ることになるのは必然だ。そのような流れもあり小屋が大急ぎで設置されたのだが、新たに問題として浮上したのは誰が監視役につくのかということであった。灯りもなく、背後には黒く蠢く樹海。噂など恐れるに足りぬと威勢よく向かった者たちも夕暮れとともに気張っていた体のどこからか恐怖が血管いっぱいに流れ込んでゾクゾクと震えてしまい、気にしないでおこうと意識すればするほど、かつて聞いた自殺者の話で頭がいっぱいになってしまう。どこからかひたひたと小屋の周りを歩く音まで聞こえる。ついには気を失ってしまい、次の日の見張りが泡をはいている男をたたき起こすということさえあった。こういうわけで、高那須山の樹海の見張りは町中の人間から忌避された仕事なのだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 そしてこの日の晩、米田庄三よねだしょうぞうに三度目の見張り番が回ってきた。庄三はこの村で生まれ育ち、村の役所で熱心に働いている来年五十歳になる男である。武骨な体つきの大男である庄三は役所の中でも何かと頼りにされがちで、この見張りの習慣が始まった最初の一日は庄三が見張り番となっていた。庄三としてもこの仕事は乗り気ではなかった。だが、過去二回の見張りでは夜にかけて樹海に立ち入ろうとするものは誰一人としてなく、どうせ今回も同様だろう、月に一度くらい自然の真ん中で体を癒せるとでも思えばいい、と庄三は考えていた。

 日が少しずつ沈み始めて、役所を出た庄三は山小屋へと向かった。だんだんと民家が少なくなり、山道へ入る。橋を越えた先に相も変わらず山小屋は依然と変わらずにそこにあった。正面には大きめの窓があり、そこから外の様子が見られるようになっている。庄三はギギィと音のなる扉を開けて窓際に椅子を動かし座り込んで山道を眺めることにした。あと40分もすれば完全に真っ暗になる、そうなったら持ってきた弁当でも食おう。木々は風に葉を揺らしてそれに賛同しているように見えた。

 30分ほどたっただろうか。少しずつ暗くなっていく樹海を眺めながらとりとめもないことを考えていた庄三はふと登山道の向こうから何かがやってくるのが見えた。最初は鹿でも迷い込んだのだろうかと思った。それは結局のところ人間だったのだが。ゆっくりと近づいてくるのにつれて少しずつその人物の様相が明らかになってくる。大男として周りから評判の庄三だが、その男は庄三よりもひと頭大きいように思われた。190センチは超えているだろう。しかしその体は病的なまでに細く、腕や足などは鹿のそれと似ていると言えないでもない。さきほど庄三が鹿のことを想起したのはそのせいである。髪は全体的に長く前髪は目を覆い隠しており、高く細い鼻が髪の間から分け出ていた。作業着のようなものを着ており、長靴を引きずりよぼよぼと歩く姿はさながら死人である。

 庄三は、ついに来た。と思った。いつかは自殺志願者が来るだろうとは思っていたが、まさかここまであからさまに病的な人間が来るとは思っていなかった。来てしまったからには自殺をやめさせなければならない。それが自分に課せられた使命である。庄三はその言葉を何度も繰り返した。鼓動は少し早くなった。心配そうに木々が風に揺れた。


「まあ、入りなさい」

山小屋から出た庄三はその男と少しの間互いに何も言わず向かい合ったが、先に庄三のほうからこう言った。男は黙ってそれに従った。

 灯りに照らされると男がまだ若い、しかしやつれた青年であることがわかった。庄三が机を挟んで反対側の椅子に座ることを勧めるとこれまた特に抵抗することもなく青年は座った。まるで心と言うものがなくなって体だけで動いているように見えた。

 さて、何から話したものか。庄三は思う。青年の手は節くれだっていて、それは彼が厳しい肉体労働を日々行ってきたことを示していた。労働に疲れて自殺を考えだしたのかもしれない。はたまた貧困の苦しみか。何から話そうか考えあぐねていると青年のほうから口を開いた。

「こんなところに山小屋があったんですね」

その威圧感のある見た目とは違って青年の語り口はとても優しかった。

「そうだ。できたのは最近だがな」

庄三はまだ悩んでいたがそこまで頭の回る性格ではない。単刀直入に言った。

「ここができたのは、お前さんのような自殺志願者を引き留めるためだ」

青年は庄三の言葉に少し驚いた顔を見せたが、すぐにまた元の優し気な表情に戻り、

「まさか、そこまでお見通しだとは。その通りですよ」と。

青年は穏やかだった。むしろ穏やかすぎると言ってもいいくらいだった。庄三が思っていた自殺をしようとする人間の想像図とはまるで違う。何もかも卑屈にしか考えられなくなって周りの呼びかけにさえ満足に答えられない、自殺をしようとする人間の様子とはそのようなものではないのか。

 青年の名は空助くうすけというらしい。幼いころに両親を亡くし弟と二人で炭鉱夫として働いて来たという。

「弟の名前は森助もりすけと言います。弟は私と違って小柄な奴だったんですが人一倍根性のあるやつで……炭鉱でもほかの人が一往復する間に何べんも往復してしまうこともあったものです。そこまでして働いたって稼ぎなんてものはあってないようなもんで、その日働いた分でようやくその日の食費が稼げてどうにか食いつなぐような毎日ではありましたが……ですけどたまの休日に、もちろんお金なんてないのでなんにも買えやしませんが二人で町へ行くと弟のやつはたいそう喜んで、またお金に余裕ができることがあればさ、二人で焼き鳥でも食いてぇもんだなぁ、なんてのを嬉しそうに言うんです。私にとってはかわいい弟ですよ」

弟のことを語る空助はとてもおだやかだった。

「へぇ。それはいい弟さんだなぁ。しかし今日は弟さんはどうしたんだ」

庄三のこの言葉に初めて空助の顔が曇った。伏し目がちになり、大きな体がしぼんでしまったように見える。

「実は……弟は先月亡くなったのです……あんなことになってしまったのでは……もはや私が殺してしまったも同然なのです」

そう言い終わって空助は窓の方に目をやった。沈んだ横顔は凍ってしまったようにどんよりとした表情のまま動かなかった。

 それが、自殺をしようとする原因か―――そう思ったものの、庄三は即座にそのことを問いただすことができなかった。うろたえ、思考を巡らせた。

 自殺をするということはどういうことだろう。庄三は自殺をしようなどとは思ったことがない。天から授かったこの命を大事にしようなどと言うことを強く守ろうとしているからだとかそういう理由は全くなく、ただ生きてきた中でそのような気持ちになったことがないのである。自殺。自分の命を自分で殺める。その気持ちがわからない自分の人生は浅はかなものなのだろうか。この青年は自分よりも濃い人生を送ってきたのだろうか。自分が自殺したら女房は悲しむ。村の人も、役所の同僚たちも悲しんでくれるはずだ。この青年には悲しんでくれる人はもういないのだろうか。命を捨ててもいいのだろうか。

 少し悩んだ後、やはり堂々巡りになる思考に耐えられなくなり、庄三は切り出した。

「弟さんの死んでしまった理由を、教えてくれないか。俺はついさっき会ったばっかりでそんな大事なことを言う義務はお前さんにはないかもしれないがさっきも言った通り俺には自殺志願者を止める必要があるんだ。その、弟さんが死んでしまったのが多分君の自殺しようとする原因なのだろう。頼む。教えてはくれないか」

 しばらく、二人は何も言わなかった。庄三は一直線に空助の方を見つめている。空助は下を向き大きく深呼吸を二回して重々しく口を開いた。

「あなたもこんな話を聞いたことがあるんじゃないですか?それはよくある、何度も繰り返されてきたような話です。それが私の、私と弟の身に起こったのです。

暴走するトロッコ、このまま行くと五人が轢かれてしまう。自分の目の前には進路を切り替えるレバーがある。レバーを変えれば五人の命は救えるが、別の進路の先にいる一人の命を奪ってしまうことになる……こんな時、あなたならどうしますか。という。

私はこの話を初めて聞いたとき、深く考えることはしませんでした。こんな答えのないような問題を考えるのは私たちには想像も及ばないようなお偉い学者様のお仕事だろうと。私はその時もっとよく考えておくべきだったのです。そんな場面になってからでは遅いのですから。

いやそもそもそんな場面に陥ってしまうなんてことは誰も考えないかもしれませんね。だから恨むべきはあの時の自分の選択ではなく自分の不運さなのか……何を言っても今更のことではありますが……ああどうしてそうしてしまったのでしょう!しかし終わってしまった今言うべきことでは……語らねばなりませんね。あの時から今まで人と話すことなどほとんどありませんでしたが、最後に一度、整理してみてもいいように思います。

今から一か月ほど前のその日、普段と何も変わることもなく、みんなが働いていました。狭くて暗い炭鉱ですが、いつもいる場所です。平和、平常、平穏、その時まではそうでした。

ずずずずずと小さな振動が最初聞こえました。それは徐々に大きくなっていき、かなりの轟音になりました。トロッコが、来ていました。その先には同僚の5人がいます。闘牛のように荒々しく爆速で駆けてくるトロッコ。何が起こっているのかわかっていなさそうな5人。このままでは轢かれてしまう!それから先は5秒となかったでしょう。運がいい、私はちょうど行き先を変えるレバーのすぐそこにいました。飛びつき行き先を見た瞬間、私は運が悪い。もう一つの行き先には弟がいたのです!

二択ですよ。五人を見殺しにするか、弟を殺すか。正義はどちらの方なのでしょう。単純に数で考えれば弟を殺してしまうしかない。ほかでもない私自身の手で。私の手は一生弟の血に汚れたままになってしまうでしょう。もし殺してしまったのなら。かわいい弟、唯一の血のつながった肉親、今まで一緒に生きてきた大切な家族、絶対失いたくない大切な宝物。

レバーから、ちらと、ほんの一瞬だけ顔を上げて弟の方を見ました。命を選ぶ。こんな時には人間には特殊な力が芽生えるのかもしれません。わずかでしかない時間でしたが、それだけで弟の真意が私には読み取れたのです。弟はすべての状況をもう理解している。それでいて、俺を犠牲にしてくれと、五人の命のために俺を殺してくれと、そうはっきり主張していたのです。

私はレバーを強く握りました。トロッコの行き先を変えるために、五人の命を救うために。たとえそれで弟を殺してしまうことになっても。

そして私は、レバーを引きませんでした。暴走したトロッコはそのまま進み、五人は……言わなくても想像はつきますね」

 ここでいったん空助は話すのをやめた。目を強く閉じ、下を向いている。

「待ってくれ。お前さんの弟は亡くなってしまったんだろ?その話では、亡くなったのはその同僚たちの方じゃないか」

 庄三は驚きながらこう言った。空助がもう一度話始める。

「えぇ、この話にはまだ続きがあります。

事故の現場はそれは悲惨なものでした。炭鉱の中は暗くてはっきりとは見えなかったのが救いかもしれません。あの五人の家族には到底足を向けて寝ることができません。私さえいなければそうなってしまう運命だったとは言え、私は彼らを助けなかったのですから。

ですが私は弟を救うことができました。それは私にとっての大きな決断だったのです。

弟のところに駆け寄り、強く抱きしめました。私の大切な家族が、まだ生きていることを実感しました。もう絶対離さないとあそこまで思ったことはありません。しかし不思議と、弟から温かみを感じることはありませんでした。不思議です。森助?と呼んでみても、返事がありません。手をほどいて弟の顔を見てみると、そこにはしぼんだ顔がありました。やつれていました。老いていました。兄さん……とか細い声で言います。こっちを見ていた、と。あの五人、トロッコが来た瞬間にこっちを、あんな目で、と。それ以降は聞き取れませんでした。私は死ぬ寸前の五人の顔を直接見たわけではありませんから、弟が見たその時の風景がどんなものだったのか説明はできません。ただ、その時の弟の怯えようはかなりのものでした。

それからの弟は魂が抜けてしまったと言っていいでしょう。心身衰弱ということで何日かは休みがもらえましたが、五人の同僚が一度に亡くなってしまったのですから当然人手は足りません。休みの間中弟は何も言わず、部屋でずっと座っていました。私の呼びかけにもほとんど反応しません。そのうち弟も仕事に戻ってきましたが弟の暗い目が明るくなることは二度とありませんでした。

それから一週間後、弟は自殺しました。近くの駅で、電車に飛び込んだのです。今度は明るい太陽のもと、残酷な光景が良く見えました。弟の部屋にあったのが、この遺書です」

 空助は作業着のポケットから折りたたまれたその遺書を取り出した。

「どうぞ」

 庄三はそれを受け取り、ゆっくりと開いた。



兄さんへ        


身勝手な僕を許してください。トロッコに飲み込まれていくあの人たちの顔がどうしても忘れられないのです。僕の頭にこびりついて離れないのです。あのような苦しみの顔は見たことがありません。悲しい死の痛みに心を刺されてただ目だけはまだ生きられるこちらを心底恨めしそうに見ているあの顔。あの目がいつも僕を見てきます。兄さんは僕に優しいからあの時レバーを引かずにいてくれたのでしょう。でもあの時兄さんがいてもいなくても、どちらにも変わりはなかったのでしょう。死ぬ人は死に、生きる人は生きる。ただそれだけのことです。僕があちら側にいればよかったのです。みんなまとめて死んでしまえば良かったのです。あの五人の命。それを対価に僕は生きています。僕の命は本当にそこまで価値のあるものなのでしょうか。あの五人の分まで人生を楽しまなければあの五人の分まで人生を謳歌しなければ。その重圧が僕を押しつぶしていきます。僕にはそこまでの価値はありません。僕はそれほど生きていなければいけない存在ではありません。ただ理不尽が六人全員の命を奪ってそれで良かったのです。今もあの人たちの目が僕を見ています。ごめんなさい。兄さんは元気でいてください。               森助



 空助か森助かどちらの涙なのかは知れないが、手紙の文字は途中からにじんだ後があった。最後まで読んで庄三は手紙を置いた。

「私が間違っていたのでは、弟が間違っていたのでは、どちらでもないでしょう。ただ私は弟にのしかかる彼らの命をわかってあげることができなかった。いや、弟を守れたからと言って彼らの死になんの心も動かさないよう私のような人間だからわかってあげられなかったのかもしれません。彼らは死に、弟も死にました。もうこの話はどこにも行けないのです。私以外のすべてはもうなくなってしまった。人の生き死にというのは人間に左右できるようなものではなくお天道様しか触れてはいけない領域なのです。私がレバーのところまでたどり着けてしまっていたところでこの話は終わっていたのです。人の命はどうにもできやしないのです」

 庄三はじっと空助のことを見た。その顔に悲痛さは見受けられなかった。ただすべてを受け入れて穏やかでいた。自分がその場にいたらどうしていただろう。自分の妻が森助の立場にいて、村のみんなが亡くなった五人の立場にいたならどうしていただろう。

「では、もう行きます」

 空助はゆっくり立ち上がると長靴を引きずりながら山小屋から出ていった。庄三は彼を追わなかった。小屋の中でさっきの続きを考えていた。やはり自分も妻を助けることを選ぶだろう。もし逆なら?五人の方に妻が含まれていたら?その時だってどうなるかわからない。妻は助かったことを単純に喜ぶかもしれないし人殺しとなった自分を軽蔑するかもしれない。庄三は考え事が得意な性格ではない。空助の言った通りお天道様の御心に任せることにした。この後空助が本当に自殺するのか、それとも思いとどまるのか、それすら空助の自由になるところではない。お天道様がすべて決めるのだ。今はそう思う。賛同するように木々が揺れる音が聞こえた。


 その後、樹海の見張り番の仕事はなくなったそうである。深夜に樹海に立ち入ろうとするものなどいなかったし、村の役員の一人が不必要だと提案したそうだ。










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高那須山の樹海 十巴 @nanahusa

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