8月14日

 真夏の蒸し暑い特有の空気と、ギャーギャー騒ぐ蝉の声で目を覚ます。

 部屋から出ると、姉さんが朝ごはんを用意してくれていた。トーストに目玉焼きを乗せたシンプルなものだ。

 牛乳をコップに注いで食事にする。俺のことをきちんと理解してくれている姉さんは、ちゃんと目玉焼きを半熟にしてくれていた。トロリと溢れる黄身が醤油と混ざり合い、パンの上で生きている。

 トーストを一気に食べ、牛乳をグッと飲み干して部屋に戻る。押し入れから、昔使っていた水着を引っ張り出してみた。

 よく考えると、佳澄と海に行くなんて言っておきながら、水着の確認をしていなかった。これでサイズが合わなければいい笑い者だ。

 試しに着替えてみると、サイズは問題なかった。これでひと安心。

 約束は昼からだから、午前中は家で過ごすことにする。久しぶりの我が家だし、姉さんの手伝いもしないとね。

 再び部屋から出ると、姉さんがちょうど洗い物を終えたところだった。手を拭いてソファーに倒れる。


「大丈夫?」

「ねむぅーい」


 分かる。休みの日は朝から無性に寝たくなるあの衝動だ。一度、それを部活がある土曜日にやって顧問の先生にしこたま怒られた。

 姉さんがソファーの上ですぅすぅと寝息をたて始める。


「……また今度にするか」


 気持ち良さそうに眠る姉さんをわざわざ起こしてまで手伝いをすることもない。姉さんが起きている時に、何か仕事をもらおう。

 とりあえず、俺もソファーの空いたスペースに座ってみる。窓から吹き込んでくる小風が心地よく、つい夢現の状態になってしまう。

 大きく背伸びをして目を閉じる。どのくらいそうしていただろうか?

 次に目を開けると、部屋一杯に香ばしい香りが満ちていた。時計を確認すると、短針が勢いよく天を指している。


「起きた? 本当に気持ち良さそうに眠っていたね」


 姉さんが笑いながら黄色いご飯を皿に盛り付ける。姉さん特製のチャーハンだ。

 朝にトーストを食べ、何をするでもなく眠ってしまった俺は、正直に言ってお腹は空いてない。それでも、食べ物を無駄にしないようにチャーハンを食べる。米のパラパラ感は、まさにプロのレベルだ。

 昼を食べると、水着を掴んで玄関に移動する。佳澄が待っている駄菓子屋に行くために。

 洗い物をしながら姉さんが声だけを発する。


「行ってらっしゃい。あっ、でも、明日は空けといてね。お墓参りに行くよ」

「うん。いってきまーす」


 勢いよく家を飛び出す。どこにも寄り道せずに駄菓子屋へと走っていった。

 待ち合わせちょうどに着くように移動したのだが、佳澄はそれよりも早くに来ていた。店先のベンチで足をばたつかせて待っている。

 俺の顔を見た佳澄が笑顔で手を振っている。


「お待たせ」

「大丈夫だよ。私も今来たところ」


 二人で並んで海水浴場に向かう。

 仲良く歩いていると、突然佳澄が指を絡めてきた。いきなりのことに鼓動が早くなる。


「佳澄!?」

「いいじゃない。私、蒼太の彼女だよ?」


 そんな風に言われてしまうと、何も言えない。結局、そのままの状態で海水浴場に来てしまった。

 一旦佳澄と別れ、公共の更衣室で着替える。水着姿で出ていくと、佳澄も既に着替え終えていた。近くに畳んだ服があるから、多分、あらかじめ着替えていたのだろう。

 海に入る。暑い日差しを受けながら冷たい海水に浸かるのは、とても気持ちよかった。まだ足だけだが、全身で海を感じると気持ちいいんだろうなと考える。


「えいっ!」


 水飛沫が飛んできた。佳澄が海水をすくい、俺に向けてかけてくる。口に海水が侵入し、しょっぱかった。


「やったな! せい!」

「きゃあ! お返し!」


 しばらく、そうして水を掛け合っていた。そして、逃げる佳澄を追いかけて全力で泳いだ。

 砂浜ではお城を作ったり、擬似的な砂風呂を作ったりした。蟹の城主に二人で笑い、佳澄を埋めて胸の部分に砂を盛り上げたら、おもいっきり怒られた。それでも、すぐに笑顔で幸せな時間を過ごす。

 真夏の青空も、段々と朱色へと変わっていく。俺たちは今、水着から平服に着替えて、移ろいゆく空を浜辺で座って見ていた。

 お互いの手を重ね合う。いつの間にか蝉の声は収まり、凛とした鈴虫の合唱が始まっていた。


「今日は……楽しかったね」

「そうだな。また、こうして遊べたらな」


 こういった時間も大切だ。童心に還るこの瞬間も。

 ……ふと、俺は思った。

 俺たちがこうして夕焼けを見ているのは、佳澄が想いを伝えてくれたからなのだと。俺も、佳澄に同じ想いを抱いていたのに、結局は言葉として伝えられていない。

 沈みゆく夕日を背景にした今なら、俺の本心を話せる気がした。


「実はさ、佳澄」

「ん? なぁに?」

「俺も……佳澄のことが好きだったんだ。だから、佳澄の告白、本当に嬉しかった」


 佳澄が目を見開く。唇を震えさせて、ようやくといった感じで言葉を絞り出そうとしていた。


「それ、本当なの?」

「ああ。遅くなったけど……俺は佳澄のことがずっと好きだったんだ」

「嬉しい……すごく、嬉しい…!」


 目元に涙を浮かべてくれる。空いた右手で涙を拭う仕草が、とても可愛く思えた。


「だからさ、また、年末年始もこうして遊ぼうよ。この島に帰ってきてさ」

「うん。そうだね。そうだよ。……そう、したいよ……」


 俺の右手に熱い液体が落ちてくる。それは、佳澄が流した涙だった。

 俺の告白を聞いて流した涙ではないように思える。一体どうしたのだろう?


「本当に――遅いよっ…!」

「佳澄?」


 佳澄の目から、涙が止まらない。次々と溢れ出す涙が砂浜に斑点を作る。


「うぁぁ……やだ……よぉ…! かえりたく……ない……よぉ…!」

「佳澄……」


 お盆が終われば、俺たちはこの島を出て帰る。でも、それだけだ。二人の関係が変わることはない。

 けれども、何だろう。この、心に引っ掛かるような不安と焦燥は。

 佳澄が、佳澄でなくなるような。どこか、二度と会えない場所に行ってしまうような。


「もっと……もっと……蒼太と過ごしたいのにぃ…! 花火だけじゃない……まだまだ……やりたいことはたくさんあるのにぃ…!」


 言葉が、決壊したダムのように溢れ出てくる。そのすべてが、佳澄の本心からの言葉だった。決して止まることのないそれらは、二人で笑いあう輝く未来の出来事。


「どうしてそこまで泣くんだ? どうせまた会えるだろうし、ほら。寂しいのなら、手紙とか電話とかあるだろ?」


 国際電話まであるこの時代だ。インターネットも使えば、佳澄が世界のどこにいても連絡を取ることは出来る。

 だが、佳澄の返答は違った。


「ごめん……出来ない」

「え?」

「帰ったら――お盆が過ぎたら、もう会えないかもしれない」

「そう……なのか?」


 佳澄が無言で頷いた。

 ショックだった。

 こうして、お互いに想いを打ち明けることが出来た。これから、今以上に幸せな時間を過ごすものだと思っていた。

 けれども、違うという。嘘や冗談ではないということは、佳澄のこの反応を見ていれば分かった。


「どうしても……帰らないといけない……でも! やだよぉ!」


 いつまでも泣き続ける佳澄を抱き締める。こんな風に泣いている佳澄を見るのは、なんだか嫌だ。

 佳澄には、ずっと笑っていてほしい。泣き顔なんて見せないでほしい。

 それは、俺のわがままかもしれない。でも、たとえそうだとしても俺は自分の気持ちを偽りたくない。

 佳澄とは、楽しいことをもっと楽しくするような関係でいたい。決して、寂しさを埋めるだけのような薄っぺらな関係にはなりたくなかった。

 シャツに佳澄の涙が滲んでシミを作る。涙を流し続ける佳澄の頭を撫でていると、安心したのか泣き疲れたのか、佳澄の呼吸が落ち着いてくる。やがて、穏やかな寝息をたてて眠ってしまった。


「……ったく、自由だよな」


 砂浜の砂を枕の形に整える。それから、佳澄の髪を砂だらけにするわけにもいかないので持ってきていた布でクッションにした。佳澄を寝かせ、上から予備で持ってきていたシャツをかけてやる。

 年頃の女の子を一人放置して帰るわけにもいかないので、目を覚ますまでここで待つ。その間に、いろいろ片付けをしておこう。

 公共の更衣室は、最後の利用者が忘れ物などのチェックをするのがこの島の決まりだ。忘れ物があった場合、役場まで持っていかないといけない。

 備え付けの懐中電灯でロッカーを照らしながら確認していく。すべてのロッカーを確認した俺の手には、小さな男の子用のパンツが握られていた。

 懐中電灯をもとの場所に戻して更衣室を出る。


「佳澄ー、帰るか?」


 そう、声をかけたが佳澄からの返事はなかった。それどころか、佳澄の姿はそこになかった。

 枕にしていた布とシャツだけがその場に残されている。


「……あいつ、一人で帰ったな。待っててくれてもよかったのに」


 荷物を纏めて家に帰る。その途中で役場に寄り、落とし物のパンツを届けた。

 家では、姉さんが夕飯を用意して待っていてくれた。思えば、ずっと姉さんに頼りきりになっていたな。

 今度、何かお返しをしようと考えながら夕飯を食べる。海鮮丼はとても美味しかった。

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