第29話【第六章】

【第六章】


「んっ……」


 ミカの唇の隙間から、微かに息が漏れた。


「ミ、ミカっ!」


 僕は慌てて彼女のそばに屈みこんだ。その頃には、カッチュウについての思索は終わり、僕の頭の中は否応なしにミカのことでいっぱいになっていた。


 その渦中の人物、ミカが、桜の花を煮詰めた凝縮液を口にして半日。曇天下ではあるが、経験上、もうすぐ日の入りの時刻であることは分かっていた。

 オルコウに噛まれて、丸一日が経とうとしている。サントの言葉が正しければ、もしこの時間帯にミカが目を覚まさなければ、それは即、彼女の死という事実に直結する。


 僕が焦りに焦り、気が狂って長剣を振り回しそうになっていた、まさにその時だったのだ。ミカが僅かな声を上げたのは。


 カッチュウには悪いが、何故自分がカッチュウの過去というものに興味を惹かれていたのか、正直分からない。過ぎてしまった過去よりも、今を生きようと必死で戦っているミカの現状の方が、よほど重要ではないか。

 もしかしたら、僕はカッチュウの心配をすることで、意識を無理やりミカから切り離そうとしていたのかもしれない。


 ミカの死、あるいはその可能性。それらから、何とか目を逸らしたかったのだ。

 などと言ったら、ヴィンクには引っ叩かれるかもしれない。もしかしたら、先ほどの喧嘩(もどき)の続きで、強烈な肘打ちを脳天に喰らうかもしれない。

 しかしそれでも、既に亡くなったヴィンクの片思いの相手の心配をするより、今のミカに注意を払った方が有意義だろう。


「これジン! ミカの肩を揺するでない! 病人じゃぞ!」


 サントに諭され、慌てて手を引く。代わりにケリーがのそのそとやって来て、ミカに頬擦りする。すると、ミカはゆっくりと、自力で瞼を押し上げた。一筋の涙と共に、彼女の焦げ茶色の瞳が焦点を合わせる。

 僕へ。サントへ。ヴィンクへ。そしてケリーへ。


「あ……」

「ど、どうしたミカ?」

「あたし、生きて、る……」

「そうだ、そうだよミカ! お前は生きてるんだ!」


 僕はサントが止めに入る間も与えずに、ミカの上半身を抱き起した。


「だ、大丈夫か? 気分はどうだ? 痛いところはないか?」

「う……。ジン、肩が痛い……」

「あっ、ご、ごめん」


 強く抱き締めすぎたらしい。


「あたし、一体どうして? ここは、どこ?」

「この島は、『文明の里』から離れた草花の密集地帯じゃ」


 サントが説明役を買って出た。


「島一つが植物園のようになっておる。ミカ、お主はオルコウなる人型特異生物に毒を注入され、生死の境を彷徨っておった。そこで、少し寄り道をして、お主を助けるために植物の採集と解毒剤の抽出にあたっていたのじゃ」

「ああ、そうだ」


 僕はそっとミカの上半身を起こし、振り返った。


「この人はヴィンク。飛行船の船長兼操舵手――ってあれ?」


 ヴィンクがいない。見回すと、彼女はカッチュウのそばに立っていた。未だに黄色い薔薇に見入っている。


「まあ、気性は荒いけどいい人だよ。立てるか、ミカ?」

「だからそう焦るなと言っておろうに! まずは水でも飲ませてやらんか!」

「うわ! いてっ、止めてくれよ!」


 ポカポカと連続パンチを繰り出すサントに向かい、僕は腕を掲げて防御した。


「それよりもジン、『神』との約束の期限があったよね? 確か、三日後の正午に『ベテルギウスの弓』に到達できなければ、その『弓』を破壊する、って……」

「まあそう心配しなさんな」


 答えたのは、いつの間にかそばに歩み寄っていたヴィンクだ。


「初めまして、ミカ。あたいがヴィンク。あんたが眠ってたのは、ざっと丸一日だ。制限時間まで、あと一日半ってとこだな。あたいの船を使えば、どうってことのない距離さ」

「そう、ですか」


 ミカは安堵感からか、ふっと息をついて俯いた。僕は彼女の背中に手を回し、そっと横たえる。

 すると、肩をげしっと小突かれた。


「何するんだよ、ヴィンク?」


 ヴィンクは無言。だが、言わんとするところは察しがつく。僕に対して、ミカに告白するよう迫っているのだ。


「そ、そんな……。今はそんなことを言ってる場合じゃ……」

「何? どうかしたの?」

「え? ああいや、何でもないよ」


 僕は慌てて両手を振ったが、ミカの注意は別なところに飛んでいた。


「あの、カッチュウさんは?」

「カッチュウはちょっと」

「怪我したの?」


 がばりと起き上がりかけたミカを手で制し、僕は言った。


「そういうんじゃないんだ。ただ、今は放っておいてやった方がいいと思う」


 ミカは少し遠くにあるカッチュウの背中に視線を遣り、


「うん、分かった」


 と一言。すると、サントとヴィンクはカッチュウの方を見つめ、話し始めた。


「ヴィンクよ、今晩中にまた離陸できるか?」

「問題ねえよ、サント、また力を貸してくれ」

「こちらも問題はない。ところで、あのカッチュウ、どうする?」

「どうするったって……なあ?」


 困惑している二人を見てから、僕とミカは顔を見合わせた。


         ※


 再度パール・クラフトが離陸するのに、そう時間はかからなかった。僕はミカに宛がわれた部屋で、今まであったこと説明した。


「そうなんだ……。うん、オルコウさんが、人間じゃなくて怪物だった、っていうのは覚えてるけど」

「それからすぐに、ミカは気を失ったんだ。オルコウから分裂した化け物にうなじを噛まれて」

「それから、ヴィンクが助けに来てくれたのね?」

「そうだ。それで、この飛行船を使わせてもらうのと引き換えに、ゴーレムの相手をした。今までで一番厄介だったよ」


 自分が死にかけたことは黙っておく。


「その戦いの中で見つけたのね? 長剣を」

「ああ。僕の新しい相棒だ」


 僕は鞘ごと長剣を引き抜き、横向きにして自分とミカの間に置いた。


「短剣を柄に埋め込むと使用可能になる、のよね?」

「そうだ」

「外せるの?」


 唐突に問われて戸惑ったが、問題はあるまい。僕は指先を鞘に差し入れ、ゆっくりと力を加えてかちり、と短剣を外した。

 念のため長剣を振るってみたが、やはり全身が軽くなるような感覚は失われていない。


 上手くすれば、短剣と長剣で二刀流ができるかもしれない。いや、それは難しいな。いくら軽いとはいえ、下手に自分の戦闘姿勢を変えない方がいい。ただでさえ、短剣から長剣に主要武器を変えたばかりなのだから。


「カッチュウさんは? 何かあったの?」

「僕にもよく分からないな……。でも、ほとんど記憶が戻りかけてるみたいだ。今しばらくは、頭痛に悩まされるんじゃないかと思う」

「ふうん……」


 すると、ドアを外側から叩く音がした。


「あたい、ヴィンクだ。腹減ってんじゃねえか、二人共?」

「あ」

「あ」


 その声に、僕とミカは、同時に腹の虫を鳴かせた。きゅるるる、と情けない音が、狭い部屋に響く。


「入るぞ」


 そう言って現れたヴィンクは、籠を一つ腕に提げていた。そこには、果物がたくさん積まれている。


「全くなあ、ジン! お前はミカのことが心配で、ロクに飯も食わなかったからな」

「まあね」


 からかわれないよう、平然と応じる。しかし、今回反応したのはヴィンクではない。ミカだ。赤林檎のように頬を染めてしまった。


「おたくら、熱々だな」

「べ、別にそんなんじゃありません!」

「だからさ、ヴィンク。今は夜で寒いくらいだよ? それが熱いってどういう――」


 と言いかけて、僕はようやく心に取っ掛かりがあるのを感じた。

 ミカのことを心配していた時の、自分の胸中を思い出す。あの感情は、熱いものであり、冷たいものでもあった。


 ヴィンクが言いたいのは、心の極端な温度差のことではないのだろうか。

 今は安心しているから『熱い方』に心が傾いている、ということか。


「じゃあ、これは籠ごと置いて行くからな。毒は入ってねえから、安心して食いな」


 にやり、と顔を歪ませるヴィンク。気づけば、僕もまた頭に血が上っていた。顔から火が出る、とはこういうことなのだろう。


「あっ、あのな、ミカ、僕が顔を赤くしてるのは、何もミカのことを考えているからじゃなくて……!」

「そんじゃお二人さん、ごゆっくり~」


 悠々と去っていくヴィンク。後に残されたのは、気まずい沈黙と謎の熱気だ。


「ね、ねえ、ジン?」

「何だよ?」


 ミカはじっと僕の目を覗き込んできた。ゆっくりと顔を近づけてくるミカ。


「お、おいミカ、何するつもりだよ?」

「さあ、ジンも目を閉じて」


 その一言に、僕は意識が吹っ飛びかけた。何が何だか分からないが、今はミカの指示に従うべきだ。

 頑丈な鎖で繋がれてしまったかのような気持ちで、僕はゆっくりと目を閉じる。その直前に見えたのは、そっと僕の頬に手を寄せるミカだった。

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