第21話
「うおっ!」
浮遊魔法を経験したことのないカッチュウが、驚きの声を上げる。
サントはまだ少し苦し気な表情だったが、余裕がある。この浮遊が上手くいくことを確信していたのだろう。
そしてミカは、目を閉じ、両手の指を組み合わせて、球体状の泡の中央にぽっかり浮かんでいる。
魔法の出来を確かめる余裕もないらしい。だが、無事浮遊魔法は機能している。
僕はできるだけ身動きせず、呼吸もゆっくりと落ち着かせながら、眼下の光景を見遣った。
既にビルの半分ほどまでは降りてきただろうか。首を上げ、飛び下りてきた窓を見つめる。そして、ぞっとした。
「ッ!」
真っ赤な人型の怪物が、意を決したように降って来るところだった。言うまでもなく、オルコウだ。
奴には、あの高さから落下しても無事だという自信があるのか? いずれにせよ、このままではオルコウはこの泡に接触する。下手をすると、この泡が破壊されてしまうかもしれない。
僕は咄嗟に、ミカに振り返った。落ち着いてはいるものの、極めて高度な集中を強いられている様子だ。『早く降りろ』などとはとても言えまい。一体どうしたらいいのか。
見る見る迫ってくるオルコウ。その節だらけの腕の先端には爪が生えている。
「皆、気をつけ――」
と言いかけた時には、既にその爪は泡を突き破っていた。
がくん、と体重が全身にかかり、僕たちは真っ逆さまに落下し始める。
「う、うわわわっ!」
これでは僕たちは、あと十数秒でアスファルトに叩きつけられぺしゃんこだ。ミカも組んでいた指を解いて、恐怖に目を見開いている。カッチュウも大きく体勢を崩していた。
僕たちの冒険は、ここでお終いなのか。僕も目を閉じようとした、その直前だった。
「ゆけっ、ケリー!」
サントの声が響き渡る。すると眩い光が僕たちを照らし出した。ケリーが、獅子の姿になっている。そうか。甘い香りが感じられなくなったため、サントが魔力を使えるようになったのだ。
ケリーはビルの壁面を蹴って、わざと自分の落下速度を上げた。向かう先にはオルコウがいる。その頭部に向かって、ケリーは牙を突き立てようと試みた。一足早く防御姿勢に移ったオルコウは、腕を使ってそれを退ける。
しかし、ケリーの勢いを殺しきれず、呆気なく突き飛ばされた。道路を挟んだ反対側のビルに衝突し、がしゃり、という音と共に壁面にめり込んだ。
ケリーはそのまま、僕たちより一足先に落下していった。四本の強靭な足を屈伸させて、瓦礫を巻き上げながら道路に着地する。
僕たちが地面に叩きつけられる直前、ケリーはその真下に回り込んだ。そして、
「うわっ!」
「きゃっ!」
「ぐっ!」
「むっ!」
僕たち四人を背中に乗せるようにして伏せた。ケリーの身体は思っていたよりずっとしなやかで、落下の衝撃は見事に吸収された。
「大丈夫か、我が眷属よ!」
慌ててケリーの前に回り込み、その顎を撫でてやるサント。彼女の心配は杞憂だと答えるつもりなのか、ケリーはゆるゆると気持ちよさげに首を揺らした。
「はあっ! 何とか無事着地できたみたいだな」
そう言いながらも、カッチュウは背中から何かを引き抜いた。自動小銃ではない。そのそばに格納されていた刀だ。
「カッチュウ、自動小銃は?」
「弾切れだ。それはおいおい対策を練るから、今は目の前の敵に集中しろ」
僕の頭を軽く小突くカッチュウ。その視線は、斜め上方に向かっている。
僕にも見えた。オルコウが、ビルの壁面に爪を引っかけながら下りてくる。そして、ズン、と着地した。
周囲は既に夕日の残滓もなく、しかし街灯は点々と灯っていた。何故だろう? 『文明の里』は廃墟ではなかったということか?
理由はどうあれ、視界が確保されているのは幸いだ。
「あの化け物を片付けるぞ。サント、ケリーは戦えるか?」
「もちろん! 我が臣下を甘く見てもらっては困る!」
いつの間にか、ケリーはサントにとって『眷属』から『臣下』へと格上げされたようだ。勢いよく雄叫びを上げ、オルコウを威嚇するケリー。
巨獣と人型の肉塊は、同時に互いに向けて駆け出した。
先に仕掛けたのはオルコウだ。腕を伸ばし、先端の爪を輝かせる。すると、ちょうど五指の形状に爪が割れ、より素早く動き出した。
ケリーはこれを屈んで躱し、一気にオルコウの懐に跳び込む。しかし、牙や爪を使う間を得ることはできず、体当たりをかますに留まった。
すると、カッチュウがケリーのわきから勢いよく飛び出した。
「はッ!」
勢いよく、大上段から刀を振り下ろす。オルコウの伸び切った片腕は、あっさりと切断された。言葉にならない苦悶の声を上げながら、オルコウは後退する。そしてこちらに背を向け、駆け出した。
「ジン! 短剣で仕留めろ!」
言われなくとも分かっている。カッチュウが言い終える前に、僕は既に短剣をオルコウのうなじに向かって投げ放っていた。そして、まんまと罠に嵌った。
オルコウは片足を軸に身体を回転させ、残った腕で短剣を握り込んだ。そして、勢いよく自分へと引き寄せた。
「うあ!」
全く予想外の俊敏さと怪力。僕は呆気なく転倒し、オルコウに向かって引きずられた。
奴から目を離すことはしなかった。しかしそれが、余計に僕の恐怖心を掻き立てることとなった。
僕に向かって、オルコウが跳躍したのだ。その足先には、大きな爪が生えている。腕から爪が生えた時と一緒だ。
これではやられる。そう思い、僕がぎゅっと目を閉じたその時。
何かの魔法が行使される気配が背後に生まれた。僕の頭上を通過していく。そして、僕は急にオルコウの引力から解放された。
この気配、ケリーではない。いや、それよりずっと慣れ親しんだ感覚だ。
ぱっと目を開けると、オルコウの身体が宙に浮いていた。この薄紫色の光は、紛れもなくミカのもの。攻撃魔法ではなく、対象を泡に包んで浮かばせる魔法を行使したらしい。
しかし、先ほどの落下から僕たちを守ったがために、彼女の魔力は極めて大きく消耗しているはず。案の定、すぐに泡は消滅してしまった。
だが、ここで生まれた隙を逃すケリーではない。今度こそ、その牙がオルコウの胴体を捉えた。ぐしゃり、と果物を握り潰すような音と共に、オルコウの身体は呆気なく二分された。
「ケリー!」
サントの声がする。その響きに秘められた意を汲み取ったのか、ケリーは鬣をぶるぶると震わせた。そこから金粉のようなものが生まれ、オルコウの死骸に降り注ぐ。
ひょいっとケリーがその場を離れると、オルコウは瞬く間に、金色の炎に包まれた。
「ジン、無事か!」
カッチュウの叫びに、僕は擦りむいた頬の血を拭ってから腕を掲げた。足早に、皆のいる場所まで駆け戻る。
「ん?」
「どうしたの、ジン?」
急に立ち止まった僕に、疑問の言葉を投げかけるミカ。しかし、僕は殺気を感じていた。先ほどとは異なる、明確な気配だ。
「ミカ、逃げろ!」
そう叫んだ直後、ミカの背後で何かが飛び跳ねるのが見えた。
「ぎゃあっ!」
「ミカっ‼」
僕が叫んだ時には、ミカは首を謎の物体に挟まれていた。いや、噛みつかれていた。
カッチュウが慌てて、その物体を叩き落とす。
「ミカっ‼」
再び叫び、ミカの下へ駆け寄る。ミカは全身を脱力させ、膝を地面に着けるところだった。
間に合わなかった僕の代わりに、カッチュウが彼女を支える。その背後では、ケリーが謎の物体を踏みにじっていた。
「カッチュウ! ミカは? 何があったんです?」
「迂闊だった。オルコウから斬り落とした腕が、まだ生きていたんだ」
悔し気に顔を顰めるカッチュウ。ミカの出血は酷くはなかったが、その顔は真っ青だった。
「そんな、どうして? ミカは敵性動物の探知が得意――あっ」
そうだ。彼女は疲れ切っていた。魔法など使えるわけがない。
不意を突かれたミカは、ただの少女に過ぎない。自分を守る術すら知らないのだ。それもこれも、彼女が僕を助けようと魔法を行使したがためだ。
「ミカ……。僕のために……」
僕の目から、唐突に涙が溢れ出す。
畜生、どうして守ってやれなかった。何故、彼女に注意を払わなかった。
僕の幼馴染なのに。相棒なのに。僕の、僕の、僕の――。
無様に嗚咽を漏らす僕の眼前で、ミカはゆっくりと瞼を上げた。
「ジン……。大丈夫……?」
「あ、ああ、僕は平気だ! それよりミカ、お前……!」
すると、ゆっくりとミカは口元を緩めた。
「良かった、ジン、あなたが、無事で……」
「い、いや、それよりお前!」
「いいの」
ミカは微かに首を傾け、こう言った。
「あたしの最後の、家族が無事、で……」
ゆっくりと瞼を閉じ切ったミカ。僕は大声を上げたような気がするが、自分でも自分のことが分からなかった。僕が一体、何を失ってしまったのかということさえも。
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