第19話
しばらく戦車で進んだ。この街の中心部、最も高い建造物(ビルディング)に向かって。
しかし、それはあまり続かなかった。
「うむ、ここからは徒歩だな」
カッチュウの一言に、僕たちは従わざるを得なかった。目の前には倒壊した中型のビルがあり、道路を塞いでいたのだ。
カッチュウは操縦席上の蓋を開け、顔を出した。先に周囲の様子を確かめる算段らしい。
顔を引っ込めたカッチュウ。ゆっくりと兜を外す。そこには、苦悶、とまでは言わないまでも、苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいた。
「ひどい臭いだ。人工的で化学的な臭さだな。毒性は低いが、さっさと乗り切るにこしたことはない。皆、何か布状のものを口と鼻に当てろ。深呼吸はするな。サント、ケリーにも何か口元に宛がってやってくれ」
素早く指示を出すカッチュウ。武人の面目躍如といったところか。
指示に従って、僕は後部の蓋を押し上げた。片手で布切れを口に当て、戦車の天井板に膝を着いてミカたちを引っ張り上げる。
「うっ!」
ミカがぎゅっと顔を顰める。無理もない。こんなに鼻腔を満たされるのは、狩りの時の血生臭さ以来だ。しかも、この臭いは嗅ぎなれない類のもの。
これでは、僕でも殺気を感じづらくなってしまう。
続けてサントを引き上げると、ぴょこんとケリーが飛び出してきて、慌てて車内に引っ込んだ。
「全く、仕方ない眷属じゃな」
そう言って、サントはふっと青白い泡を生み出した。再びケリーが顔を出すと、その顔の先端は、泡で包まれていた。
猫の嗅覚は人間を遥かに上回るという。それでこんな異臭の只中にいたら、一たまりもあるまい。
どうやら、今のサントの魔法は、嗅覚を遮断するものだったらしい。だが、そうしたら何か危険が発生した際、ケリーが獅子化して戦うのに支障が出るかもしれない。
それでも、全く移動できないよりはマシだろう。
僕たちの移動準備が完了したのを確認したのか、カッチュウは自動小銃を構え、黒い石が粉砕され、敷き詰められた地面(アスファルト)を歩んでいく。
先頭を行くカッチュウが前方を、僕が右を、ミカが左を、サントが最後尾を、各々警戒しながら進む。
「……」
何者かに見つめられている気配がする。殺気ではないが、敵意に近いものはある。
向こうが行動を起こさない限り、刺激すべきではないだろう。戦力は無限ではない。特にこの街、『文明の里』にいる限りは。
僕は辺りを見上げながら、ゆっくりと歩を進める。道路の両端に立ち塞がるビル群の存在感は、今まで遭遇したどんな怪物よりも大きい。だが、その『雰囲気』は隠すことはできていない。
それは、どうしようもなく荒廃した、時代に取り残された空気感のことだ。それは、そこいら中から漂い出ている。壊れた電灯、露出した水道管、傾きかけた鉄柱群などから。
「人影はないようだな。ミカ、敵性動物の気配は?」
「えっと、今のところありません」
「そうか」
と言い終えるや否や、カッチュウは自動小銃を構え、振り返って僕たちの行く先に向けた。
「何者だ! こちらには武器があるぞ!」
鋭い声を上げるカッチュウ。その先にいたのは、一人の老人だった。中途半端に差し込む夕日のために、上半身は橙色に、下半身は真っ黒に見える。
「落ち着きなされ、旅の方々。わたくしはあなた方の敵ではない。逆に、あなた方をもてなすために、こうしてまかり越してございます」
いわゆるスーツ、というものだろうか。きっちりとそれを着込んだその姿からは、確かに敵意は感じられない。
「清浄な空気と安全な飲食物を用意してございます。どうぞ、おいでください」
僕はそっと、カッチュウに背後から近づいた。
「どうするんです、カッチュウ?」
「ふむ……。ここは有難く、お招きに預かるとしよう」
「い、いいんですか? 毒でも盛られたら――」
「彼には俺たちを殺す動機がない。逆に俺たちは、『神』を倒そうとしているんだ。それは彼らにとっても利益になることだろう」
いざとなれば、食事に手をつけなければいい。そう割り切るように言って、カッチュウは自動小銃を下ろした。
「ご理解いただき、光栄でございます」
そう言って、深々と頭を下げる老人。
「申し遅れました。わたくし、この街の案内人をしております、オルコウと申します。以後、お見知りおきを」
「了解。取り敢えず、この爺さんについて行くぞ。皆、周辺警戒は怠るなよ」
自分たちの自己紹介などほったらかしで、カッチュウは僕たちに呼びかけた。
※
僕たち一行は、オルコウに従ってビルの合間を歩いていた。
何やら、甘い香りがする。どこからだろう? それに、いつからだろう? よく分からないが、少し前、オルコウに出会ってからだろうか。
僕たちはカッチュウの指示に従い、布を口と鼻に当てていた。それでも、その甘い香りは鼻腔に忍び込んでくる。
自然と、その香りを危険なものだとは認識しなかった。一つには、それが不快なものではなかったから、という理由がある。
だが、そんな『不快ではない』ものこそ罠に使われるのではないだろうか? 『不快ではない』というだけで、この警戒感の緩みのわけを説明できるだろうか?
そう、今の僕たちの警戒感は、明らかに緩んでいる。危機感も緊張感も同じことだ。
それでも僕たちは、オルコウに招かれるままに通りを歩んでいく。『警戒感がない』ということ自体に警戒感を抱かない。否、抱けない。
どこか意識がふわふわしてきた僕の前で、カッチュウが立ち止まった。危うく鼻先から衝突するところだった。
何かあったのか。カッチュウの背後から顔を出すと、オルコウがこちらを向いて、深々とお辞儀をしているところだった。その手は肘から直角に曲げられ、僕たちから向かって右側のビルを示している。
「よし。このビルに入る」
自動小銃を背負いながら、僕たちに振り返るカッチュウ。
それを聞いて、オルコウは再び背筋をピンと伸ばし、先立って歩き出した。やはり自分が先導する気なのか。
そのビルを見上げる。他のビルに比べると、小綺麗な印象を受けた。破損しているガラスは少ないし、つい最近磨かれたようにも見える。出入口は両開きの前面ガラス張りで、沈みかけた夕日を反射して輝いていた。
僕たちが足を踏み入れると、パッと自動で天井の照明が点灯した。こまめに手入れされているようだ。
「こちらの床は大理石になっております。どうぞ足を滑らせることのなきよう、ご注意願います」
相変わらず温厚な声音で、オルコウが告げる。
すると、すぐ隣で短い悲鳴が上がった。
「おい、ミカ!」
「だ、だってジン、今、向こうから冷たい風が……!」
「これは申し訳ございません、お嬢様」
オルコウがぱっと振り返り、迷うことなくミカと目を合わせた。
「このビルは全自動空調システムを採用しております。適切な気温と湿度になるまで、しばしお待ちを」
そう言って再び背を向け、ビルの奥へと歩んでいくオルコウ。
「おい皆、もう鼻や口を覆う必要はないぞ」
カッチュウが背を向けたままそう言った。
「このビルの中の空気は清浄だ。異臭はしない」
その言葉に、僕はゆっくりと布切れを引っ込め、軽く周囲の匂いを嗅いでみた。確かに、異臭はしない。件の甘い香りを除けば。
振り返ると、ミカがほっと息をつくところだった。気楽そうだ。サントはといえば、少しばかり顔を顰めていたが、カッチュウに反論しようとはしなかった。
「それでは皆様、こちらへどうぞ」
オルコウのそばには、またしても両開きの扉があった。ただし、小さめだ。その先には、箱のような空間がある。
僕たちの緊張を解くためだろう、再びオルコウは先行し、その箱に歩み入った。
オルコウの無言の誘いに、僕たちはゆっくりと箱に収まった。
「前もって申し上げますと」
オルコウはゆっくりと語り出した。
「これは『エレベーター』と申しまして、ビル内を上ったり、下ったりを自動で行う装置でございます。僅かに違和感を覚えられるかもしれません。ご承知おきください」
再び勝手に閉まる扉。すると、ガタン、と一瞬大きく揺れた後、頭を軽く押さえつけられるような感覚が走った。僕は思わず息を止めてしまったが、それも一瞬のこと。やがて、やや褪せた橙色の光が差し込んできた。
『エレベーター』なるものが世界にどれだけ存在するのかは分からない。だが、今僕たちが乗っているこれは、随分贅沢な造りをされているようだ。
振り返ると、視界がぐんぐん上がっていくところだった。それが分かるのは、このエレベーターの外壁が強固なガラスでできているからに他ならない。
僕は、相変わらずぼんやりとした頭で、しかし興奮しながら景色を眺めていた。
「これが、『文明の里』……」
夕日はやや群青色の夜闇に押されていたが、それでも明るくはあった。逆光になって、高層ビル群が黒い巨樹のように見える。
その根元では、何重にも折り重なった道路が、まるで巨樹の根のようにうねっていた。
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