第11話
「あー、びっくりしたあ……」
こちらに背を向け、川の中央にしゃがみ込んだミカだった。衣服はまとめて川べりに置かれていて、彼女が全裸であることは疑いようがない。
どうやらミカは、川を群れで下ってきた魚たちの姿に驚いたらしい。確かに、ここからでもその鱗の輝きは眩しく映る。夕日を浴びて、より磨きがかかっているようだ。
って、待てよ。魚についてのことより、僕には優先すべき事項があるのではないか?
「ねえジン! 魚の群れがすっごく綺麗だよ! あたしが川から上がったら、あんたも一緒に眺めて――」
と言いかけたところで、ミカは立ち上がり、振り返った。
「あれ?」
僕にできるのは、とにかくミカから目を逸らし、全力でかぶりを振ることだけだ。
ちらりと僕の視界に入ったところでは、ミカは長い手拭いで、胸から下を覆っていた。大丈夫、罪は軽い。
「ジン……。今言ったよね? 『あたしが川から上がったら』って……。それがどうして、今そこにいるわけ?」
「お、お前が突然悲鳴を上げるから、何があったのかと思って……」
しばしの沈黙。僕の視線はミカの足元だけに集中している。これなら問題はない。後は、僕の弁解能力にかかっている。
ミカの足が動いた。身体をこちらに向けたのだ。
「ミカ、分かってるだろう? 僕はお前のことが心配で――」
「言い訳無用ッ!」
視界の上部に、何かが飛来するのが見えた。僕は反射的に目と腕を上げ、その『何か』を縦に両断する。その柔らかい感触から、それがミカの使っていた手拭いだと察しがついた。
ここに、戦いにおける鉄則がある。敵から目を逸らしてはいけない。何があっても。
僕の防衛本能は、手拭いを投擲してきたミカを、一瞬『敵』であると誤認した。その手拭いの先に見えたのは、言うまでもなく、一糸纏わぬミカの姿である。
何が何やら分からない間に、僕は鼻血を噴出させて仰向けにぶっ倒れた。意識が飛ぶ直前に聞こえたのは、夕焼け空を貫くように響き渡るミカの絶叫。まともに彼女を目にすることがなかったのは、ある意味不幸中の幸いだった。
※
「おう、随分遅かったな。って、大丈夫か、二人共?」
僕とミカ(衣服着用済み)が戻った時、最初にカッチュウがかけてきた言葉がこれだ。
まさか僕に、女性の裸体を覗き見する趣味がないことは、ミカも承知のこと。だが、起こってしまったことに変わりはない。
きっとミカは僕同様に、死人のような目をして突っ立っているに違いない。
カッチュウが歩み寄ってきて、僕たちの肩に手を載せ、軽く揺さぶる。
「おい、何があった? 危険なガスでも吸ったのか?」
「ガス……? ああ、煙のことですか。大丈夫ですよ、獲物を香りで惑わせる類の肉食植物はいませんから。少なくともこのあたりにはね」
「何だよジン、目が虚ろな割に饒舌だな! ミカ、何があった?」
「魚の群れが、綺麗だなあ、って」
「お前ら一体、何の話をしてるんだ⁉」
この中で最も狼狽していたのは、言うまでもなくカッチュウである。申し訳ない気持ちはあったが、事の次第を説明する気にもなれない。
僕とミカは、並んでその場にへたり込み、しばしの間視線を虚空に漂わせていた。
気づいた時には、日はとっくに暮れていた。小さな焚火から火の粉が舞い、明るさと温度を維持している。真夏と言っても森林の中だ。木陰があるだけで涼しく感じられるし、夜ともなれば冷え込むのは道理である。幸い、適温と感じられる範囲ではあったのだが。
「お前らなあ、そんな死人みたいな顔して、よくこれだけ食ったもんだ」
やれやれと腰に手を当てるカッチュウ。あたりには、やや煤けた細い木の棒が転がっている。カッチュウが獲ってきてくれた小動物の串焼きの残骸だ。主に兎、蛇、トカゲといったもの。
カッチュウは、バリバリと音を立てながら、余った恐竜の肉に食いついている。鱗を上手く剥ぐことができなかったため、食べづらい様子だ。
「明日の朝は早いぞ、二人共、睡眠を取れ」
串を背後に放り投げながら、カッチュウが告げる。
「え? カッチュウさんは……」
「誰かが歩哨に立たねばな。夜行性の動物が危害を加えてこないとも限らない」
やや正気に戻った僕の問いに、カッチュウが即答する。
思えば、不思議な人物だ。記憶喪失だというのに、すっかりこの状況に溶け込んでいる。
「あの、カッチュウさん」
「何だ?」
「あなたはやっぱり、武人なんじゃありませんか?」
「武人? 戦う人間のことか? 戦い――戦争――」
そう呟いたカッチュウは、唐突に両手で頭を押さえた。
「ぐあっ!」
「ど、どうしたんですか、カッチュウさん!」
その声に、ようやくミカも正気に戻ったらしい。
「ジン、カッチュウさんがどうかしたの?」
「わ、分からない! 突然頭を押さえて、苦しみ出して……!」
「カッチュウさん、大丈夫ですか?」
ミカは慌ててカッチュウのそばに寄り添い、背中を擦り出した。といっても、装甲板の上からなのだが。
「待て、俺は……くっ、大丈夫だ……。何かを、思い出しそうになったんだ……」
「無茶しないで、カッチュウさん!」
「ああ……もう大丈夫、大丈夫だ」
両膝と両肘を着いていたカッチュウは、何とか上半身を起こした。すっとミカが彼の額や頬に手を当てたが、
「熱はないみたいね。一体どうして……」
と呟くに留まった。
その後もカッチュウは、自分は大丈夫だと繰り返し、ゆっくりと顔中に滲んだ汗を拭った。
思い返してみるに、カッチュウは『戦争』という言葉を呟いてから苦しみ出した。一体、どこで起きている戦争なんだ? そもそも戦争をするだけの人員と装備が、今この星に残っているのか?
僕が思案している前で、カッチュウは水を一口飲んだ。ゆっくりと胃袋へ下りて行く水が、彼の喉仏を上下させる。
「いや、すまなかった。俺はもう大丈夫だ。二人共、安心して休んでくれ」
そう言いながら、カッチュウは銃器の点検作業に入った。ここから先は、彼自身にしか体感できない時間が来ている。そんな感じがした。
僕とミカはどちらからともなく、近くの大木に背中を預けるようにして、ゆっくりと目を閉じた。
※
「……」
何故か僕は眠れなかった。あんなに疲弊したのだから、あっという間に睡魔に囚われると思っていたのだけれど。いろいろ考えることが多すぎるのか。
僕はカッチュウに余計な心配をかけないよう、寝たふりをしたまま思案しようと試みた。しかし、それはそれで上手くいかない。
身体だけでなく、頭だって疲れ切っているのだ。だが、あまりに疲れすぎると休む体力までなくなると、おじさんに聞いた覚えがある。
あれは僕が、村内で短剣の素振りをしていた時のことだったか。そんな過去に思いを馳せようとした、その時だった。
「お父さん……」
びくり、と僕は全身を震わせた。思わず目を開きそうになったが、何とか瞼を押しとどめる。
今日はあまりにもいろいろあったけれど、おじさんが亡くなってまだ一日と経っていない。彼女が現実を受け入れるには、まだまだ時間がかかるはずだ。
僕はありったけの集中力を動員して、慎重に目を開けた。カッチュウの様子を探る。焚火を絶やさないよう、ゆったりとした所作で細木をくべ続けていた。
かと思えば、銃器の整備に戻り、パチン、パチンと弾込めと思しき作業を行っている。その金属質な音が、焚火の中で小枝が鳴る音と混じり合う。
(大丈夫だよ、ミカ)
僕は胸中で呟いた。
(今はカッチュウがいる。戦ってくれるんだ。おじさんは帰ってこないけれど、新しい仲間ができたじゃないか)
カッチュウの自動小銃が、焚火の灯りを反射して橙色に輝いている。
(僕だって、おじさんの仇は討ちたい。いや、討ってみせる。だからミカ、僕の復讐を手伝ってくれ)
そう念じながら、視線をミカへと移した。するとちょうど、ミカが寝返りを打ち、こちらに顔を向けるところだった。
どきり、とした。そうそう距離が離れているわけでもないのに、こちらを向かれたら、その端整な顔立ちがありありと分かってしまう。
焚火を横から浴びて、陰影のくっきりとしたミカの顔は、どこか古代の彫刻を思わせる。『神』の存在以前の人々は、こうしたものを褒めそやしていたらしいが、それもあながち間違ってはいないのかもしれない。
しかし、その繊細な造形の顔に、不自然に光るものがあった。頬を伝っていく、透明な光点。涙に違いない。
もしかしたら、ミカは夢の中で、おじさんとの邂逅を果たしているのかもしれない。それによってもたらされたのが、喜びなのか悲しみなのかは分からないが。
やがて、カッチュウが立ち上がった。焚火の周囲を警戒し、巡回でもするつもりなのだろう。
「大丈夫だよ、ミカ」
今度ははっきりそう言って、僕は軽くミカの頭に手を遣った。
撫でてやっていると、少しずつミカの呼吸が落ち着いてくるのが分かった。ちょっとはおじさんの代わりに――ミカの家族の代わりになれただろうか。
そんなことを思いつつ、僕は手を引っ込めて再び瞼を閉じた。今度こそ、きちんとした眠気が襲ってくる。それを感じて安堵する頃には、僕の意識は暗闇へと落ちていた。
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