第7話
「ありがとう、ミカ!」
「気をつけてね、ジン!」
そう声を掛け合って、僕は再びワニと相対した。脇腹からどくどくと赤黒い血を流しながら、ワニは低い唸り声を上げている。やはり、一回刺しただけでは、致命傷にはならないか。
それに、ミカの魔力だって無限じゃない。苦し気に歪んだ顔を見るに、僕を救えるのは精々あと一回だろう。
「だったら……!」
僕は賭けに出た。いや、ワニに対する一種の信用と言ってもいい。短剣を自分の身体に引きつけ、必殺の一撃をお見舞いするのに、機会は一度だけだ。
しばしの沈黙の後、ワニは勢いよく突進を開始した。それに向かい、僕はさっと短剣を放り投げる。ちょうど下草を薙ぐように。すると案の定、ワニは跳躍した。
「そこだッ!」
僕は瞬時に短剣を右手に戻し、勢いよく引きつけ、しゃがみ込んだ。
僕の頭部を噛みちぎろうとしたワニの巨躯が、僕を跳び越えていく。それはつまり、僕に無防備な腹部を晒したことを意味する。
僕は容赦なく、膝立ちになって短剣を掲げた。ぶすり、とワニの胸部に短剣が刺し込まれる。後はワニ自身の跳躍によって、ずざざざざっ、と腹部が斬り開かれた。
敵の跳躍力を活かして、自身は動かずとも敵を斬り裂く。この短剣の硬質な輝きは、絶対に僕を裏切らない。
ワニは四肢を広げたまま、べたりと地面に横になった。そして、血飛沫と臓物をそこら中にまき散らしながら、身体をぐるぐると回転させる。往生際の悪い奴だ。
放っておいてもくたばるだろう。だが、このワニの血が、新たな敵性動物を呼び寄せることは間違いない。早々にとどめを刺して、運んでしまうのが得策だ。
僕は慎重に、暴れ狂うの頭部に近づき、両手で短剣の柄を持った。そして、
「はあっ!」
気合一閃、首筋さっと切れ込みを入れた。この固い感触、首の骨を両断した手応えに間違いない。
ワニはしばし痙攣していたが、そう長くかからずに脱力、絶命した。
「ミカ、大丈夫か?」
「う、うん、だけどね、ジン……」
「何だよ?」
ミカにしては歯切れが悪い。どうしたというのか。
「さっきジンを助けるために、結界魔法を使ったでしょう? あれで、魔力の残量が残り少ないの。ジンとあたしを安全に村に連れ帰すまで、保つかどうか……」
「あ、そ、そうか。悪い」
僕は素直に謝った。あれは、明らかに僕の失策だったからだ。
ミカがいなければ、僕は間違いなく死んでいた。感謝しこそすれ、彼女を責める道理はない。
「それじゃあ、一旦僕たちだけで村に戻ろう。大人で魔法を使える人たちを集めて、ワニの死体の運搬を手伝ってもらうんだ」
「そ、そうだね! そうしよう!」
一瞬で花弁が開くように、ぱっとミカの顔が輝いた。戦闘時とは違う意味で、僕の心臓が跳ねる。いや、今はどうでもいい。
「慰霊祭、確か三日間やるんだったよな。だったら今日も、ご馳走を皆に振る舞える」
「そうだね! やったね、ジン!」
片手を挙げ、掌をこちらに向けるミカ。僕はおずおずと、その掌に自分の掌を打ちつけた。
「それじゃあ、臭いを遮断する結界魔法をかけるから――」
そうミカが言い切ろうとした、その時だった。
暗雲が、村の上空で渦を巻き始めたのは。
※
最初に異常に気づいたのは、ミカだった。びくり、と身体を震わせた彼女の視線。それは遥か上方に向けられ、歩きながらでは追うのに支障が出る。僕はミカに続いて立ち止まり、上空を見上げた。そして、ぞくりとした。
「何だ、あれ……」
視界の中央に飛び込んできたのは、真っ黒に染まった空だった。ただし、空全体が暗いのではない。黒雲が渦を巻くように、一ヶ所に集中している。村の上空へと。
僕は反射的に振り返って、そこに浮かんでいるものに目を遣った。『神』だ。その目はカッと見開かれ、完全に攻撃態勢に入っていることを主張していた。
「ミカ、隠れろ!」
僕は地を蹴ってミカとの距離を詰め、その肘あたりを強引に掴んだ。そのまま引っ張りながら、木立へと駆け込む。
「伏せてろ!」
ミカの頭に手を載せて、自分はそっと獣道に顔を出す。村へと真っ直ぐ続いている道だ。
そして僕は、その先の光景に背筋が凍った。
竜巻だ。雷鳴轟く黒雲から、太くて凶暴な空気の渦が、村へと降り立っている。
「あれは、竜巻か?」
そう僕が呟くや否や、渦と地面の接触点から、凄まじい勢いで多くのものが弾き飛ばされた。それは木材だったり、石材だったり、はたまた生身の人間だったり。とにかく、結界魔法など何の意味もなく、竜巻によって村が蹂躙されていることは事実だ。
僕は慌てて、獣道に歩み出た。
「ちょっ、ジン⁉」
「お前は下がってろ、ミカ!」
そう言いつけて、僕は獣道の中央に立った。そして、叫んだ。
「おい、僕はここだ!」
今や轟音がそこら中に響き渡り、聞こえるかどうかは分からない。だが、伝わるだろうという確信はあった。何せ、僕が今語りかけようとしているのは他でもない、『神』なのだから。
「村じゃない、こっちだ! お前の狙いは僕だろう!」
ぶんぶんと両腕を振り回す。だが、竜巻は一向に村から離れようとしない。
僕は視線を逸らし、『神』の方を見つめた。すると、今度は明確に『目が合った』。
ごくり、と唾を飲む僕の視線の先。『神』はやや目を細め、口元を歪めた。それは、悪魔の微笑みにも思われた。
「まさかあいつ、僕を挑発するために村を……!」
もしそうだとするならば。
「ジン! ジン、どこへ行くの⁉」
「ミカはここを動くな!」
僕は革袋にある短剣の感触を確かめてから、勢いよく村の方へと駆け出した。
僕と尋常に勝負をする気なら、あの竜巻で僕を殺そうとはしないはず。つまり、『神』は竜巻を止めるだろうと思ったのだ。
暴風の域に入り、砂利や小さな木片が、僕にも飛びかかってくる。そこで僕は短剣を抜いた。
「はあっ!」
見えない空気を斬る。そのイメージで、袈裟懸けに短剣を振るった。すると、ヴン、という音と共に短剣が振動し、その軌跡に合わせて実際に真空状態を生み出してみせた。
何故真空などと分かったのかと言われたら、勘だとしか言いようがない。いずれにせよ、短剣の描いた鮮やかな緑色の光が、竜巻の根元を断ち斬ったのは事実だ。
僕は短剣を正眼に構え、竜巻が復活した際に備えて攻撃態勢に入った。しかし、
「ん?」
さあっ、と暗雲は散り散りになり、熱い日光がジリジリと僕の肌を焼き始めた。
これは『神』が攻撃を止めた、という意味だろうか? 僕が追い払った?
「……まさかな」
竜巻による攻撃はきっと、終わりを迎えていたのだ。だからこそ、竜巻は短剣で斬り裂くことができたし、ちょうど暗雲ごと消え去った。
もし『神』が本気で僕を殺すつもりだったのなら、竜巻に僕を巻き込んで八つ裂きにするくらい、造作もないことだっただろう。
などと考えながら、僕は視線を正面に戻した。そして後悔した。村の惨状が、あまりにも酷かったからだ。
背後から、誰かが駆けてくる。ミカに違いない。
「見るな!」
僕は怒声を上げ、ミカを声だけで押しとどめた。しかし、手遅れだった。
「な、何、これ……!」
ミカが絶句するのも無理はない。
家屋は一つ残らず根こそぎにされ、井戸や祭壇を造っていた石材も散乱している。地面そのものも、まるで巨獣の爪で引き裂かれたかのように、縦横無尽に切れ目が走っていた。
そしてその上には――。
「マット、ケン、リオ、エル……!」
子供たちが倒れ伏していた。皆、四肢の一部を失ったり、大量に出血したり、いずれにしても、ぴくりとも動かない状態だった。
「い、嫌……」
「おい、落ち着け、ミカ!」
「いやああああああ!」
ミカは喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げた。
「皆、どうしちゃったのよ! 今朝までずっと、一緒に洗濯物を手伝って、井戸から水を運んで、朝ご飯を食べて、それから、それから……!」
「もうよせ、ミカ」
僕がミカの片腕を引き留めると同時、ミカは勢いよく振り返り、僕の頬を張った。虫の音さえ止んでしまったこの異常な空間に、パチン、という音は否応なしに大きく響いた。
「ジンは……あなたは平気なの? こんな光景を見せられて! 何の罪もない人たち、子供たちが殺されたんだよ! それなのに、どうしてあなたは涙一つも流さないでいられるの? あなたの心には復讐心しか残ってないの⁉ 人間らしさはどこへ行っちゃったのよ!」
パチン。今度は僕が、ミカの頬を張った。呆気に取られ、自分の頬に手を当てるミカに向かい、僕は言った。
「人間らしさで『神』が殺せるなら、血でも涙でも、いくらでも流すよ。でも心で『神』は殺せない。僕の復讐の願いだけで、『神』を倒せるはずがないんだ。だから僕は、ずっと戦い続けなきゃいけないんだよ」
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