第6話


         ※


 翌朝。

 僕は毎朝の日課として、ひんやりとした井戸水で全身を洗い清めていた。まだ日が昇る前のことだ。もちろん短剣は、腰元の小振りな革袋に入れてある。

 すぐに帰宅し、寝床である共用倉庫から自分の研ぎ石をを持ち出す。ようやくぼんやりと明るくなりかけてきた東の空を見つめながら、階段を下りて倉庫の裏側へと回る。

 そして、何となく足が止まったところで、研ぎ石を置いた。地面に直接ではなく、そばにあった木板の上にだ。


 研ぎ石もまた、真っ黒だった。火山の火口深くで生成された、極めて硬質な石だ。そのせいで、研ぎ石自体を加工して用いることはできない。たまたま平べったくなっている石を見つけたので、特に手を加えずに、そのまま研ぎ石として使っている。


 シャリシャリと、横向きにした短剣を擦りつける。正直、これほど硬質な短剣を毎日研ぐ必要があるのか、疑問である。だが、精神安定のために、僕はそれを日課としていた。もしかしたら、この短剣に対する愛着のようなものが湧いていたのかもしれない。


 この『相棒』に対しては、人間を相手にする時と違って、気を遣う必要がない。それは僕にとって、面倒がないということと同義だ。

 しばらく研ぐ作業を続けている間に、虫の音が夜から朝のそれへと切り替わっていく。しかし、件の面倒事の種が僕の背後に迫っていることも、僕は同時に察していた。


「おはよ、ジン!」


 僕はこれ見よがしにため息をついた。


「ああ」


 とだけ、ミカに告げる。

 僕の不愛想な態度は、しかしミカには通用しない。七年前からずっとだ。狩りの時以外で、彼女は僕の前で怯えた様子を見せたことは一切ない。幼馴染、恐るべしである。


「ふあーあ、見てみなよジン、朝焼けがすっごく綺麗だよ!」

「ああ」


 同じ対応をする僕。短剣を研ぐ手を休めることもない。

 するとミカは、僕の態度を意にも介さず、さっさと歩いて僕のそばにしゃがみ込んだ。


「その短剣も綺麗だよね。朝日を反射して眩しいくらい」


 ん。相棒を褒められるのは悪くない気分だ。そんな余裕が顔に出たのだろう、ミカは振り向き、ニヤニヤしながら妙なことを言った。


「ジン、あなたのことを不愛想だって言う人もいるけど、あたしは好きだよ?」

「ぶっ!」


 危うく手を滑らせて、短剣を放り出すところだった。


「ミ、ミカ! お前突然、なな、なんてことを……!」

「ふっ、ははははっ!」


 底抜けに明るい笑い声を上げるミカ。僕は自分がからかわれたのだと気づいていたが、それでも彼女の笑い声は耳に優しかった。


「あー、ごめんごめん! あなた自身のことじゃなくて、あなたの瞳のことだよ、あたしが好きなのは!」

「僕の、目?」


 僕はようやく落ち着きを取り戻し、しかし胸中にもやもやしたものを感じて、ミカに一瞥をくれた。ミカはといえば、瞳を輝かせながら僕の目を覗き込んでいる。


「不愛想どころか、怖いって言う人もいるけどね。でもあたしは好き。だってジンは、あたしたちのために戦う覚悟でいるんだものね。あたし、応援してるから」


 あまりの直球に、僕は頬が染まるのを感じた。


「きょ、今日はもういいや。朝飯、頼むよ」

「なあんだ、人が褒めてあげたのに、あんたはあたしを顎で使うの?」


『ま、べつにいいけど』。そう言って、ミカは自宅へと引っ込んだ。


         ※


 朝食の席にて。

 既にさんさんと日光が降り注ぎ、皆起き出して、いつもの生活の手順に従って動き出している。


 僕とミカ、それにおじさんも、他の住民たちと同じように、食事の載ったテーブルを囲んでいた。今日は、昨日余ったアルマジロの肉をスープに加えたものと、小さなパンが二、三個ずつ。ようやく農業も軌道に乗ってきたところらしい。


「ああ、そうだ、ミカ」

「んあ?」


 おじさんの呼びかけに、パンで口を一杯にしたミカが答える。スープでパンを喉へと流し込んでから、ミカは問うた。


「どうしたの、お父さん?」

「後で見せたいものがある。今日の狩りが終わったら、すぐに戻りなさい」

「あ、うん。分かった」


 いつもなら、ミカは不満の一つも漏らすところだろう。彼女は狩りの後、子供たちと戯れるのをいつも楽しみにしている。

 それを放り出して帰って来いと言われたのだから、傍から見ている僕は、ミカが文句をつけるのではないかと思ったのだ。


 だが、ミカは反論しなかった。理由は明白。

 おじさんの顔つきが、真剣そのものだったからだ。僕はいつになく、興味を惹かれた。


「何かあるんですか、おじさん?」

「そうだな……。今日無事に帰ってきたら、ジンにも教えよう」

「分かりました。ご馳走様でした」


 僕は一度、深々と頭を下げて、短剣の入った革袋を手にした。食器を洗い場に置いて、勢いよく駆け出す。


「あっ、ちょっと待ってよ、ジン! あたしまだ食べ終わってないのに!」

「僕は先に獲物の痕跡を探しておくから! 昨日の狩場に来てくれ!」


 そう叫び返して、僕は颯爽と森林へと踏み入っていった。


         ※


 森林に入ってからしばし。

 草木の濃密な匂いの中で、僕が探していたのは血だ。昨日、アルマジロはあれだけの出血をした。ということは、そこに残された血の臭いに惹かれて、他の動物が集まっている可能性が高い。


 もちろんそれらは肉食動物であり、移動速度も殺傷力も高いだろう。だが、防御力は草食動物より格段に劣る。

 僕は、今日は速攻でケリをつけ、村に帰るつもりだった。おじさんが何を僕たちに託してくれるのか。それがどうしても気になった。


 急ぎながらも、極力音を立てないようにして、慎重に足を運ぶ。

 そして、見つけた。


「こいつは……」


 血の染み込んだ土壌の向こう側から歩みを進めてくる。その四肢はがっちりとして、鱗で覆われた全身は頑丈そうだ。やや水に濡れているところからして、たった今そばの川から上がってきたのだろう。


 巨大なワニだ。

 こいつはなかなか手がかかりそうである。ひとまずミカの到着を待って、周囲への警戒が万全になってから攻撃を仕掛けるとしよう。


 僕がじっと木陰から観察していると、やはりワニは血痕に興味を示した。鼻先を地面に近づけ、匂いを嗅いでいる。長めの舌が、ぺろりと地面を舐め取り、その味をワニの頭脳へと伝達する。


 観察中に、僕はふと背後からの気配を察した。ミカが僕の背中を見つけ、駆けてきている。

 僕は胸中で彼女を罵った。馬鹿、足音を立てたらワニに気づかれるだろうが。


 案の定、ワニはこちらに首を巡らせた。僕は、息を切らしたミカに背を向けながら叫んだ。


「ミカ、周辺の探知を頼む!」

「あ、う、うん!」


 ひとまず、これで他の動物は寄って来ないはずだ。僕は眼前に短剣を構え、迎撃態勢を取る。アルマジロ戦の時と同様に、僕は手元で短剣を弄び、妖光を輝かせた。

 ワニは一瞬、首を竦めたが、恐らくこれで僕が当面の敵であると理解したはずだ。


 どすどすどすどす、と地面を鳴らしながら、ワニが近づいてくる。僕はゆっくり円を描くように動き、ワニの注意をミカから遠ざける。

 ぐわっ、とその顎が開かれた瞬間、僕は跳躍した。今回も馬乗りになって、首の付け根に手痛い一撃を見舞う算段だった。


 しかし、ワニは思いがけない行動を取った。僕を追って、後ろ足だけで立ち上がったのだ。


「ッ!」


 その牙は、僕の履いていた狩猟用の長靴を掠め、一筋の傷を描いた。

 僕自身の身体に負傷はない。だが、まさかこんな大胆な動きができるとは。アルマジロよりも厄介であると、僕はこの時察した。


 ここは、短剣の切れ味を信じてみよう。僕は、どすん、と前足を着いたワニに向かい、短剣を投擲した。狙うは、鱗の薄い脇腹。突き刺して負傷させてから、糸を手繰るようにして引っ張り抜き、出血させる。

 大量出血による、失血死を狙う戦法だ。問題は、時間がかかること。その間に、より強力な動物が寄って来ないとも限らない。


 それらの思考が流れたのは一瞬だ。短刀は見事にワニの脇腹に食い込んだ。しかし、


「ッ!」


 引き抜けない。刺し込みが深すぎたのか。

 ワニは一瞬たじろいだが、すぐにその巨体をよじった。


「う、あ!」


 これでは僕は巨木に激突させられ、致命的な負傷を負いかねない。まさか、『神』の足元にも及ばずに、こんな事態に陥るとは。僕は激痛を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。


 その時だった。僕の身体がふわり、と浮かび上がり、ゆったりと地面に横たえられた。


「間に合ってよかった、ジン!」

「ミカ!」


 そうか。ミカの魔法が効いたのだ。結界魔法を構成する技量を応用したわけか。きっと今まで無反応だったのは、そのための魔力を集中していたからなのだろう。

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