第3話
「お母さん、寝てなきゃ駄目だよ! 病気なのに!」
「それどころじゃないのよ、ミカ。ジン、あなたもね」
咳き込みながらも言葉を繋ぐミカの母親。彼女は数年前に流行り病に罹り、免疫力がぐっと落ちてしまったのだ。それ以降、ほとんど出歩くようなことはなく、ミカの幼馴染である僕ともあまり顔を合わせなかった。
頬はげっそりとこけていたが、眼光は鋭い。人間の印象がこれほど変わるものとは、僕は俄かに信じられなかった。
「この船は墜落するわ。私があなたたちに、身体を守るための魔法をかけてあげる。ほら」
彼女につられて目を遣ると、魔法使いたちが一般人たちに泡状の障壁を纏わせていた。これもまた、薄紫色に輝いている。耳を澄ませると、確かに僕の父の声で、『直ちに船から降下せよ』との指示が出ている。
「さあ、くっついて」
ミカの母親は、自分の胸元に僕たちの頭部を抱き寄せた。すっと頭上に手を翳し、紫色の光で、ふわりと僕たちを包み込もうとする。
もうすぐ三人が包み込まれる。そう思われた、まさに次の瞬間だった。
ぐわん、と身体が振り回された。どうやら雷の当たり所が悪く、船全体が回転を始めたらしい。僕とミカは泡に包み込まれたものの、ミカの母親は突き飛ばされて大きくバランスを崩した。船外に放り出されかける。
「お母さん!」
「ミカ、これを!」
ミカは、母親の手から何かを受け取った。そして、母親は僕に顔を向け、口の動きだけでこう言った。
(ミカを、お願い)
次の瞬間には、彼女の身体は宙に放り出されていた。
「お母さん! お、お母さん!」
「待て、ミカ!」
僕は、喚き出したミカを何とか引き留めた。これでは内側から魔力の泡が破れてしまうかもしれない。
そうして僕とミカが落下してしまったら、たった今母親から与えられた『願い』に反することになる。それだけは、何としてでも防がなければ。
僕はミカが振り回す腕に何度も殴られながらも、彼女を引き留めた。僕とミカを包む泡もまた、墜落しかかった飛行船から零れ落ちる。ゆったりと地面に向かって降りて行く僕たち。
ミカを引き留めながらも、頭上から落ちてくる飛行船を見上げる。十分距離があるから、巻き込まれる恐れはないだろう。
ミカには申し訳ないが、僕は自分の両親の心配をしていた。操舵室には父のみならず、母も同行している。きっと僕たちのように、泡に包まれて降下してくるだろう。
そんな希望は、呆気なく崩れ去った。駄目押しとばかりに、雷が僕たちの乗っていた飛行船に集中したのだ。
「ああっ!」
思わず叫び声を上げる僕。飛行船は瞬く間にところどころが焼き千切られ、挙句、凄まじい熱波を伴って爆発四散した。
「あ、ああ……」
僕は全身から力が抜けるのを感じた。しかし、眼球は別だ。上下の感覚が不安定な泡の中で、僕は膝を着きながら上を見上げ、目を瞠っていた。
どのくらいそうしていただろうか、ミカの嗚咽が響く中で、僕の意識は曖昧になった。
※
「ねえお父さん、お母さんが……お母さんが死んじゃった……。あたしとジンを庇って……」
「そうだね。でも、お父さんでもそうするよ、ミカ。お前とジンくんを助けられるなら、命も惜しくない」
僕がゆっくりと目を開けると、そこは、森林地帯の中での開けた場所だった。上半身を巨木にもたれかけさせ、僕はへたり込むようにして座っている。既に日は高く、夏の虫の声があたりに響いていた。周囲は密林である。
上半身を起こすと、ミカが喚き出すところだった。
「お、お父さん、今何て言ったの? 『お父さんでもそうする』って? 馬鹿言わないで!」
思いっきり父親の腹部を殴りつけるミカ。
「お母さんが死んじゃったんだもの、お父さんまで『命も惜しくない』なんて言わないで、お願いだから……」
その言葉の末尾は、嗚咽に紛れて聞き取れなくなってしまった。そんなミカを、父親は優しく抱き留める。するとちょうど、僕と目が合った。
いつもは優しく、気のいいおじさんだ。だが今の彼は、顔を顰めるのを食い止めるのに精一杯な様子である。
しかし、胸中のわだかまりを隠しきれないのだろう。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「ジンくん、娘が迷惑をかけたね」
「いえ」
僕は機械的に答えた。あれほど感情的になっているミカを見て、感覚が鈍っているのだ。
「君にとってはあまりにも酷だろうが、どうしてもこの現実は受け入れてもらいたい。こっちへ」
僕はやっとのことで四肢に力を込め、立ち上がった。
「おじさん、一体何が――」
僕の言葉は、即座に立ち切られた。
そこに横たわっていたのは、父さんと母さんだ。二人共、両手を胸の前で組んで、仰向けに寝かされている。動く気配は、ない。
「我々の乗っていた飛行船が墜落するまで、あまりにも時間がなかったんだ。ジンくん、君のご両親を守るには、泡の魔力が小さすぎたんだよ。突然のことだったからね。結局、君のご両親は地面に落下して、命を落とされたんだ」
「そう、ですか」
不思議と、ミカのように誰かに縋るような思いは湧いてこなかった。いや、そもそも縋る相手がいなかった、というべきか。
僕はただ茫然と、両親の遺体を見つめた。四肢があって顔もついているだけ幸いだったと言うべきか。もっとも、その額が割れてしまっているのだが。
その時、周囲が急にざわめき始めた。
皆が空を指差し、何か一点に視線を集中させている。その相手は、『神』だった。
僕は呆然と、真昼の空に浮かんだ『神』に注視した。
「おっ、おい、目を見開ているぞ!」
「俺たちを攻撃する気なのか⁉」
「皆、森林に逃げ込め!」
神はその瞼をカッと押し上げ、しかしどこか退屈そうな様子で、数回瞬きをした。その時だった。
(ジン、君にこれを授けよう)
何だ? 誰の声だ?
「お、お前は一体――」
(受け取ってほしい)
この声は、僕にしか聞こえていない。テレパシーとかいうものだろうか。
その直後、きらり、と鈍く陽光を照り返す真っ黒い物体が、空からゆっくりと降りてきた。
(君の挑戦、心待ちにしているよ)
すると、俺が見ている間に、『神』は瞼を閉じた。
そうか。今僕は、まさに『神』と対話していたのだ。
やがて、その黒い物体はふっ、と力が抜けたように落下した。ストッ、と地面に突き刺さる。
僕はそれを手に取ってみた。短剣だ。重く、ずっしりとしている。真っ黒い刀身に、艶消し処理の為された鍔。刃渡りは、僕の肘から先よりも少しばかり長いくらい。
そこまで観察してから、僕ははっとした。僕は『神』に試されているのだ。そして『神』は、この短剣を用いて自分を殺してみろ、と言いたいのだ。
ようやく、僕の胸中に、感情らしい感情が生まれた。それは、腹の底が炙られるような感覚にも似て、胸を、喉を、脳までをも焼き尽くした。
これが、『憎しみ』というものか。
一人納得する。そして、僕の胸中は混沌に陥った。
腕っぷしが強く、皆をまとめるのが上手だった自慢の父さん。
料理上手で家事を率先してこなし、協調性を教えてくれた愛すべき母さん。
そんな二人が、僕の目の前で、こんな酷く冷たい姿でいていいはずがない。
僕は泣き喚くでもなく、『神』に向かって振り返ることもせず、両親の遺体に背を向けた。
そして呟いた。
僕が、『神』を殺してみせる、と。
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