番外編2_You Make Me (1)

由枝ゆえちゃん、分かったから、待って」

 覆い被さった私の腕の中、きょうちゃんが笑いながらそう言った。小さな身体はすっぽりと私の陰に隠れて、こんなにも体格差があるっていうのに、私を制するみたいに肩に添えられた手はびくともしなくて、思わず素直に身を引いた。明らかに有利な体勢でも単純な力で勝てないのは普通に怖い。別に無理やりするつもりがあったわけじゃないけど。

 力強いと思ったその手は、何故か私の頬を滑ると小さくて柔らかくて、儚くも見えるのだから不思議だ。

「いい子だからちょっと待ってね」

 まるで小さな子供に言うような言葉が向けられるが、私が求めているのは子供ならば抱かない欲に従ったものなので、どんな顔をして良いのか分からない。返事を迷っている間に、響ちゃんはいつも着けているネックレスを外して、ジーンズのポケットへと押し込んでいた。つい、私はそれを目で追ってしまう。じっとポケットを見つめてしまった私の両頬に手を添えた響ちゃんが、強引に顔を見るように促してくる。

「襲っておいて余所見するかなぁ」

「え、いや、響ちゃん、だけしか、見てない、よ」

 私の言葉に、響ちゃんはただ可笑しそうに目尻を下げた。本気で怒ってるんじゃなくて揶揄ってるだけなんだろう。そしてネックレスを外してくれたということは、続きをしてもいいよって意味だ。そう考えて、改めて私は彼女に覆い被さる。今度はもう抵抗されなくて、むしろ迎えてくれるみたいに両腕が私の背に回った。

 ネックレス、こういう合図になってくれて便利は便利なんだけど。だからって気にならないわけではなく。時々どうしても、視線がそれを追ってしまった。

 ある日、響ちゃんは居間の端にあるローソファーに座ってペンチを握っていた。何をしているんだろうと首を傾け、深く考えずに傍へと寄ったらネックレスのチェーンを修理していた。「壊れたの?」とか、思わず口から出てきそうになったけど飲み込む。話題にしていいのかどうかが、そもそも分からない。

「響ちゃんって器用だよね」

 結局、よく分からない言葉を零して、隣に座る。響ちゃんは視線を手元に向けたままで口元に緩く笑みを浮かべた。

「何故か調理器具は扱えないんだけどね」

「ピーラーも怪しいのはどうしてなんだろうね」

「はは、どうしてだろうねぇ」

 皮を剥くだけでも危なっかしいから、ほとんど料理のお手伝いはお願いしていない。スナップエンドウの筋取りは上手にやってくれていたので、道具を渡したら駄目なんだと思う。

 チェーンを直し終えた後は、クロスを使って指輪やチェーンを丁寧に磨いている。ぼんやりとその様子を横目にしていた私は、例によって例のごとく、思考が勝手に口から出てきた。

「大事にしてるね」

 言うと同時にハッとした。そして思わず響ちゃんの顔を見たら目が合ってしまって、余計に焦る。

「いや、何て言うか、私はアクセサリーってまめに着けたりケアしたり出来なくてさ、よく怒られたなぁって思って」

 嘘ではない。本当にそういうことは苦手だった。むしろ失くしてしまうことも多く、響ちゃんみたいに大事にしているのは心から凄いなと尊敬するし、だから今の言葉が口をついて出てきてしまったんだと思う。

 響ちゃんの視線はいつの間にか手元の指輪に戻っていて、口元にまた緩い笑みを浮かべていた。

「前の彼女に?」

「えっ、あ、いや、ええと」

 自分が墓穴を一生懸命に掘っていたことを今更になって気付く。背中に嫌な汗がざっと流れた。

「……まあ、うん、そんなとこ」

 嘘を吐いても仕方が無いので大人しく認めると、やっぱり響ちゃんは楽しそうに笑う。失言をした私が単純に面白かっただけみたい。両手で顔を覆って長い息を吐けば、響ちゃんの笑い声は長引いていた。

 藪蛇を繰り返さないように口を閉ざして、私は近くにあったレシピ本を引き寄せて開く。しかし当然のように内容はまるで入ってこなくて、隣で響ちゃんがちまちまと指輪を磨いては確認して、磨いては確認してを繰り返している動作ばかり、それとなく窺っていた。

 指輪は女性もので、響ちゃんの細い指に収まるべきサイズであるように見えた。響ちゃんの指には何の跡も無いけれど、元々は何処かに嵌められていたんだろうな。

「由枝ちゃん」

「へっ、うん?」

 不意に呼ばれて慌てて顔を向ける。響ちゃんの視線は私には向けられていなくて、まだ手元だけを見ていた。分かりやすく見つめてしまっていたのかもしれない。緊張しつつ横顔を見つめる私に対し、響ちゃんはいつもと変わらず穏やかに微笑んでいた。

「気になるなら聞いてもいいんだよ」

「え、あ……」

 一瞬だけ私を見つめた視線は何処までも優しくて、心が緩んだ。浮かべている笑みも少しも作り物じゃなくて、響ちゃんは不躾に指輪を気にしている私のことを、本当に少しも、不快に思っていないってことなのかな。けれど次の瞬間、響ちゃんは少し寂しそうに眉を下げた。

「なんて、この言い方ずるいか。気にしてるだろうなって分かってて、知らないふりをする私の方が、ずっと悪いね」

「い、いや、響ちゃんは、……悪くないよ、全然」

 咄嗟に告げた言葉に、響ちゃんがまた少し笑う。下がった眉はいつもの位置に戻っていたけれど、納得してくれたようには見えない。私は本当に、響ちゃんに非があることだとは少しも思わないのに。

「ごめんね響ちゃん、変に見つめ過ぎた、よね」

 肩を少し強張らせながら謝罪する。丁度、指輪を磨き終えたらしい響ちゃんは改めてそれをチェーンへ通す。けれど、首元に戻すことは無かった。

「ううん、逆。絶対に見ないようにしてるから、気にしてるけど、気を遣ってるんだと思って」

「あー……」

 見なさ過ぎても確かに違和感だよね。一生懸命に気にしないようにしていたけれど、逆効果だったと知った。

「由枝ちゃんは、私の恋人でしょ」

「えっ、はい」

 改めて響ちゃんの口からそう言われると非常に照れるけれど。つい上擦ってしまった声を誤魔化すみたいに咳払いしてみたものの、当然ばればれで、響ちゃんが少し肩を震わせて笑う。

「聞く権利は充分にあるよ。気になることがあればどうぞ」

 私を見つめる響ちゃんの目は優しい。だけど、私が聞こうとしていることって、少しも優しくないことだと思う。

「言いたくないことは、言いたくないって、言ってね」

「うん」

 応える響ちゃんは何故か目尻を一層下げた。嬉しそうな顔に見えたけど、そんなわけないから、多分、私の為に優しい顔をしてくれたんだと思う。居た堪れなくなって、私は視線を落とした。

「……指輪は、誰かからの、贈り物?」

「そう、彼氏だね。去年の四月九日まで、付き合ってた人。まあ、別れたわけじゃないから、この場合は何て言うんだろうね」

 響ちゃんは何でもないことみたいに軽く話す。だけど私は思わず唇を噛み締めた。心が沈んでいく。予想はしていたものの、彼女の口からはっきりと言われればその重みはまるで違った。言葉が出てこない。響ちゃんは私の様子を少し見つめてから、慰めるみたいに腕を撫でてくれた。

「もう居ないんだよ」

 何処か可笑しそうに、殊更明るく告げてくる。でもそういうことじゃないと言うか、それはそれで、悲しいと言うか。

「響ちゃんはまだ、その人が好き?」

 我ながらバカな質問だと、分かっている。理沙とか翼が聞いてたら、本当に私のことを呆れた目で見つめるんだろうな。それでも響ちゃんは私を優しいままの目で見てから、手元の指輪に視線を落とした。

「そりゃ、まあ、うん、そうだね」

「……当たり前だよね。ごめん、何か、質問がばかで」

「はは、ううん。いいよ」

 項垂れたら、また響ちゃんの手が優しく私の背を撫でてくれた。響ちゃんが悲しい顔を見せないのは、ただ私に気遣ってくれているからだって分かる。

「私、と」

 それなのに、「どっちが好きか」なんて、私は輪を掛けてばかなことを言いそうになっている。流石に途中で飲み込んで口を噤んだ。もっと違うことが言えないかな。誤魔化す為の新しい言葉を探していたら、まるで私が質問を言い切ったみたいに、響ちゃんは答えを考えて首を傾けた。

「んー、難しいな、どうだろう」

「いや、あの、ごめん、今の質問は無しで……」

「あはは」

 一貫して微笑んだままで、響ちゃんは手元で指輪を弄ぶ。彼女の顔を見られなくて、私もその指輪を見つめていた。

「ただの妄想」

 徐に響ちゃんが呟く。私は次の言葉を探してたところだったんだけど、反射的に顔を上げて彼女の横顔を見た。まだ、響ちゃんは指輪を見つめて口元に笑みを浮かべていた。

「もし世界が滅びないで、平和なままで由枝ちゃんと出会ってたとしたら、多分、由枝ちゃんを選んでない」

「……うん」

 当たり前だと思った。響ちゃんの彼氏さんがどんな人だったのかは分からないけれど、奪えたとは思えない。私は別に、響ちゃんを一般的な形で射止めてこの立場に居るわけじゃない。終末を迎えた世界の中で、孤独だった響ちゃんの傍に居ることを許されただけだ。平和な世界で、純粋に響ちゃんから選ばれた人に、敵う気はしなかった。

宗助そうすけ……あ、ごめん、彼氏の名前なんだけど、あいつと付き合ってて、不満は何も無かったし、楽しかったし、幸せだった。だから、新しく誰かに好意を伝えられたとしても、考えようともしなかったかなって思う」

 その言葉に、傷付きはしなかった。こうして取り繕うこと無く話してくれる響ちゃんをむしろ誠実な人だと思った。それでも「比べてどちらが好き」と言うのではなくて、「既に幸せだったから比べなかった」と答えるのも、彼女らしい優しさだ。

「まあ、分かんないけどね、こんな仮定の話」

 ううん、分かっているよと、私は思う。本当にその「もしも」が現実になるなら、彼女が語った未来になるに違いない。

 いつの間にか再び視線を落としていた私を、どうしてか響ちゃんは笑いながら軽く覗き込んできた。目を合わせたら、私の頬に手を伸ばして、ぐしぐしと撫でてくる。

「うえ、何、なに」

「ふふふ」

 何で今そんなに楽しそうなのかが分からない。普段から淡い笑みはよく浮かべているものの、子供みたいに楽しそうな顔をしてるのは珍しかった。今、そんな顔をする雰囲気ではないと思うんだけど、彼女の心を読み取るのは、いつも私には難しい。

「もう一つ妄想なんだけど、こっちはほぼ確実」

 彼女の言う意味が分からなくて、微かに首を傾ける。響ちゃんはやや眉を下げた後で、また優しげに目を細めて私を見つめた。

「まだどっかで宗助が、何とかして生きてたとして、私に会いに来たら」

 その例えに、私の心臓は怯えて跳ね上がった。

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