番外編

番外編1_Melting Hot (1)

 響ちゃんと出会ったのが六月の半ばで、今は八月の半ば。うだるような暑さが続く。青空も続いているから、正直、いつ空が開くかって気が気じゃないのも嫌な時期。

 でも今日、そんな『暑さ』を理由に庭で響ちゃんと水遊びをして、濡れた響ちゃんっていう美しくて色っぽいものが見られたので、夏、好きになりそう。Tシャツから透けたのが下着じゃなくて黒のタンクトップなのはちょっとだけがっかりしたけれど、そんなこと関係ないと言えるくらいには煽情的でした。

 ちなみに私の方はしっかり下着が透けていたものの、響ちゃんはどうでもいいって顔してた。知ってた。

「響ちゃん、早く着替えちゃってー。濡れてると涼しいのは分かるけど!」

「あはは、はーい」

 ずぶ濡れのまま、いつまでも縁側に座り、水鉄砲で遊んでいる響ちゃんに声を掛ける。水も滴るイイ女を私も長く見ていたいんだけどね、これで椿の女神が風邪を引いたら全く洒落にならないから。私が手渡したタオルを受け取ると、響ちゃんは大人しく部屋に上がって着替えを取り、そのまま服を脱ぎ始める。響ちゃんあんまり、着替える時にこっちを気にしないよね。時々真っ昼間に押し倒されてるんだから学習してよ、と少し思う。

 仕方なく背を向けようとした瞬間、カンと甲高い音が床を叩いた。思わず振り返りそうになって、すぐに音の正体に気付いて、踏み止まる。そしてその場から逃げるように、私も着替えを求めて寝室の方へと移動した。

 出会った頃から、響ちゃんはネックレスをしている。さっきのは多分、着替えの拍子にそれを落とした音だと思う。私はそのネックレスには物理的にも、話題としても、絶対に触れない。シャツの中にしまい込まれているチェーンの先にあるものが、指輪であることはずっと最初から気付いていた。

 多分、彼氏からのものかなって思ってる。もしかしたら、旦那さんかも。いずれにせよ去年の四月九日まで、響ちゃんにはきっと相手が居たんだと思う。まあ、そうだよね、モテそうだし、可愛いし。

 最初はご両親とか、そういう『大切な人』からの貰い物だっていう可能性も考えていたんだけど、恋人になってからはその線を消した。悲しいかな、響ちゃんは私と触れ合う際、ご丁寧にそれを外してくれるからだ。恋人になるまでは寝る時も着けていたのに、恋人になってからは、私がベッドで手を出すよりずっと前から、必ず外すようになった。ソファで抱っこをねだられる時も、付き合ってからは着けていたことが無い。

 響ちゃんはその瞬間、私だけのもので居てくれようとしているんだって分かる。同時に、指輪が『そういう相手』との絆だということも。ベッドから出て、私の腕の中から出た響ちゃんは、今もあのネックレスを外さない。……私には、何も言えない。


「由枝、終わったかー?」

 翌日はいつもの仕事だった。ふと昨日のことを思い出してぼうっとしていたら、先に仕事を終えた翼と理沙が私の様子を見に来てくれた。野菜の入った十数個の籠の最後の一つを、慌てて所定の場所に運び入れる。危うく手伝わせてしまうところだ。

「うん、これで終わり。後は道具、返してくるだけだよ」

「じゃあ門の前で待ってるわね」

「はーい」

 今日は翼達と同じ作業じゃなかった。三人共ばらばらだったのに、それでも行き帰りは一緒に居ようとしてくれている二人の気持ちがちょっと嬉しい。急ぎ足で持っていた道具を片付けて、入口付近に置いている自転車を引っ張って二人が待つ門へと向かった。

「あ、そうだ由枝。明日、お前ん家に行ってもいいか?」

 帰り道に翼が不意にそう問い掛けてくる。私は首を傾けてから、同意を示して頷く。

「うん、いいよ。でもどうしたの、いつもは突然来るのに」

 互いの配給日や仕事の日などは大体把握しているし、無霊がそれ以外の用事で気軽に外出できるご時世でもない。私の家まで遥々お裾分けに来てくれる二人が珍しいくらいだ。だから二人が私の家に来る時、わざわざ予定を聞いてくるようなことは今までに無かった。そんな疑問に理解を示して苦笑いを返してくれたのは理沙で、翼は何故かわくわくしたような顔をしている。

「今回はね、お裾分けじゃないのよ」

「スイカがあるんだ! アタシらだけで丸々一個は食べきれねーから、一緒にどうかと思ってさ!」

 私は二、三度、目を瞬く。スイカ。今まで配給に出て来たことも無い、珍しいものだ。翼の声が弾むのもよく分かる。

「ホントに? 嬉しい、良いの?」

「つーかむしろ、お裾分けする時のお返しが豪華すぎて申し訳ねえんだよ……何かさせてくれ」

「前回の牛肉、本っ当に美味しかった……」

 返った言葉に思わず笑う。響ちゃんが持つ戦果報酬は本当にいつも豪華だ。時々、その恩恵に与っている私や、翼と理沙は嬉しいのは勿論だけど、申し訳ない気持ちも多分にある。私達は戦っているわけでは無いのに、「食べきれないから」と響ちゃんは惜しげもなく私達に分けてくれる。そんな彼女に何かを返したくなる気持ちは私も同じだと思った。

「十四時くらいに着くように行くわ」

「分かった、サイレンには気を付けてね」

「おう」

 その翌日、私は玄関先の掃除をしながら二人を待っていた。別に急ぎのことではないが、ついでに気になったから掃除を始めただけ。とは言えそんなに早くから玄関に居たわけではなかったので、掃除を初めて十五分も待たない内に、カラカラと自転車のタイヤが回る音が近付いていた。

「おっす……」

 到着した翼の第一声は何処か戸惑っていた。不思議な気持ちで振り返るけれど、その理由はすぐに分かった。

「え、どうしたの」

「いや、家を出ようとしたら門のとこに居た……」

 翼が押す自転車の荷台に、我が物顔でグリフォンさんが座っていたのだ。私の驚いた顔を見ながら、グリフォンさんはまるで胸を張るように背筋を伸ばし、誇らしげにフンと小さく息を吐き出している。

『主が迎えに行けと言うからな』

 その命に従ったことが、彼にとっては誇らしいらしい。もしくは、響ちゃんから命を受けたことなのだろうか。よく分からないが、満足そうな顔をしてグリフォンさんは自転車から下りた。

 しかし彼の護衛があったことは確かにありがたいことだと思えた。今日は澄んだ青空をしていて、スイカを食べるには絶好の気候かもしれないけれど、空に穴が開きそうな天気でもある。午前中、空を見上げた私がそんな懸念を伝えたこともあって、響ちゃんはグリフォンさんを迎えに送ってくれたのかもしれない。

「グリフォンさんもスイカ食べますか?」

『いや、いい。気持ちだけ貰っておこう、主の喜びが俺の喜びだ。確かスイカは主の好物だぞ』

 顔は猛禽類のそれなのに、少し笑ったように見えた。すぐにつむじ風と共に姿を消してしまったから、本当に表情が動いたのかを確かめる暇は無かったけれど。

「で、お前、玄関でわざわざ待っててくれたのか?」

「ああ、うん」

 玄関前、私の自転車の横に並べて自転車を停めた翼が振り返りながら問い掛けてくる。私は少し笑って、口元に人差し指を当てた。

「ついさっきまで起きてたんだけど、響ちゃんが寝てるんだよね、だから」

「なるほど」

 翼が手の平で口を押えている。静かにするという意志表示だろう。二人がこの家に来てくれる時は、いつも大きな声で私を呼ぶのだけど、そうすると響ちゃんが起きてしまうから。静かに玄関扉を開け、二人を招き入れる。二人も極力音を立てないように動いてくれた。

 居間に入り込んでも響ちゃんの姿は無い。二人がちょっと不思議そうな顔をしているのに気付きながら、私はそのまま縁側に進んだ。響ちゃんが寝ている場所だ。二人は、縁側に寝転がってすやすや眠る響ちゃんにぎょっとした顔をしていた。

「こうやってすぐ、此処で寝ちゃうの」

 起こさないように小声でそう伝えると、二人は何とも言えない表情をしていた。響ちゃんにとっては『縁側』って珍しいものらしく、妙に気に入っている様子だ。おそらく結構、都会の生まれ育ちなんだろう。結果、こんな場所で寝落ちしてしまうことも多く、目を離した隙に熱中症になるのではないかと、私は心配で仕方ない。でも私が仕事に行っている時もきっとこうやって寝てるんだよね。もうグリフォンさんに見張ってもらうしかないかな。

 それはそれとして。私がわざわざ縁側に出たのは、別に寝ている響ちゃんをお披露目する為ではない。縁側に置いてあるサンダルを履いて、庭へと下りる。三歩ほど離れた場所に、水を張った大きなタライを置いていた。中には大ぶりの氷をごろごろと浮かべてある。

「これでスイカ冷やそ。しかもねえ、この氷、なんと響ちゃんの」

「え。神霊?」

「そう」

 翼と理沙はまじまじと氷を見つめる。一つ一つの氷は大きく、形もそれぞれ違う。私の家の冷凍庫で作ったものでないことは一目瞭然だった。

「恐れ多い……」

「あはは、本当にね」

 何の力も持たない私達からすればそう思うのに、響ちゃんは霊付きとして戦う以外のことであっても一切の躊躇なくその力を使ってくれる。「便利でしょ」と笑ってたけど、「便利」なんて言って良いのかどうか分からなくて私は無言で笑い返すしか無かった。

 翼から受け取った大きなスイカを氷と共に浮かべ、冷えるのを待つ間は麦茶でも飲んでいることにして、三人で並んで座る。冷えるまでには響ちゃんも自然と起きるかもしれない。

「それにしても、スイカ懐かしいね、昔は毎年一緒に食べたっけ」

 私の右隣では響ちゃんが眠っているけれど、あまり構わず私は逆側に座っている二人へと話し掛ける。勿論ちゃんと声のトーンは落とした上で。

「ああ。だからまた一緒に食べたいなって思って、準備してたんだ。去年は無理だったけどな」

「え、じゃあこれ、翼と理沙が作ったの?」

「うん、お隣の畑を借りてね」

「へぇ~すごい」

 六つほど収穫が出来た中で、最も綺麗で美味しそうな一つを此処へ持ってきてくれたらしい。他の五つは、いつもお裾分けをくれるご近所さんに配ったのだと言う。偉いなぁ。私って本当ただただ貰ってるだけなんだよね。お返しも、響ちゃんがしてるだけだし。本当に、申し訳ないことこの上ない。

「あのさ、由枝」

「ん?」

 自分にも何か出来ること無いかなーなんて、青空を見上げてぼんやり考えていたところ、徐に私を呼んだ翼の声は何故か妙に真剣な色をしていた。

「ずっと、気になってたんだけど」

 翼は私の方を見ていなくて、両手で持っている麦茶の入ったコップをじっと見つめている。その奥から翼を見る理沙は彼女が話そうとしている内容を知っているみたいで、何処か心配そうに眉を寄せていた。改まって、一体、何だろう。私は首を傾けるけれど、翼はすぐに続きを言わなくて、一度口を閉ざす。そして何度か迷ってから、意を決したように大きく息を吸い込んだ。

「――何で、ずっとアタシらのこと避けてたんだ?」

 それでも声が静かだったのは、多分、私の隣でまだ響ちゃんが眠っているってことを忘れなかったからだろう。私が黙ったから、瞬間、しんと静まり返った。セミの鳴き声が響く合間に、草木が風に揺れている音が入り込む。私は口を開かなかった。

「理沙と付き合った後も、三人の関係を変えたつもりは無かったし、由枝に、嫌な思いとかさせたつもりは無かった。けど、アタシらが気付かないとこで、何かあったんじゃないかって、ずっと気になってて」

 もう二人の顔を見ていなかった。いつの間にか私の視線は落ちて、翼の足元にある二人の影を意味もなく凝視していた。

「こうしてまた話してくれるようになったけど、原因、やっぱりどんなに考えても分かんねえままで、だから、もしかしたら、また分かんねえうちに由枝に嫌な思いさせるんじゃないかって」

 以前のような関係に戻った今、もうこのまま流してしまおうと正直思っていた。向き合う強さを持てないところ、避けてしまった当初からちっとも変っていない。でもどうあっても悪いのは私だけなのに、二人が自分を責めてて、こうやって思い悩んでいるんだって突き付けられると、流石にそれで良いとは思えない。本当に、私だけがずっとバカだったんだ。

 ふと右側に視線を向ければ、まだ響ちゃんは身じろぎ一つせずに眠っている。穏やかな寝顔に、少しだけ肩の力が抜けて、心がゆるんだ。

「二人に、原因は無いんだよ、ごめん」

 もっと早くに言えばいいって分かっていて、それでもずっと言えなかったことが、するりと口から出てくる。こんなに簡単なことなら言えば良かった。だけど多分、今だから、簡単に言えるだけだ。

「私はただ、二人が上手く行ってくれたらいいなって。私が邪魔になりたくないなって思ったの」

「由枝を邪魔に思うことなんて、絶対に無いわよ」

 すかさず続けられた理沙の言葉に、私は眉を下げて笑う。分かってた。二人がきっとそう言ってくれるだろうことなんて、あの時から。だから私が怖かったのは、そう『思われる』ことなんかじゃない。

「二人は、そうだと思う。でも私の方が、……ふとした時に、嫌な自分が出ちゃう気がしたんだよね」

 顔を上げれば、二人は私の言うことがよく分からないって顔をしていた。最初に理沙を見て、それから翼へと視線を移してから、続きを告げた。理沙を真っ直ぐに見据えて言うほどの度胸は今も無い。

「私も理沙が好きだったからさ」

 二人は同時に息を呑んで、沈黙した。そんなリアクションの息がぴったりで、何だか面白かった。

「不満があったわけじゃなくてさ、幸せになってほしいって思ってたよ。でも、傍に居て、違う感情が出てきちゃったら嫌だと思って、逃げたの」

 翼と理沙の仲を邪魔したいなんて気持ちは、一度も持たなかった。その気持ちは間違いなく本物なのに、それでも自分の恋が届かなかった悲しみを完全に消す自信が無かった。自分の気持ちをぶつける勇気も。今だから『言えば良かったのかも』って思えるけど。あの時の私をどれだけ説得したってその道は選べない。辛かったし、怖かった。間違いなく後悔をしているのに、あの日に戻れたとしても私は同じ選択をすると思う。

「私が臆病だったから、何か、悪い方向にしちゃったよね。本当にごめん」

 二人の視線は私に向けられていなかった。私も二人から視線を外して、タライの中を呑気に泳いでいるスイカを眺める。二人はまだ何も言わない。その沈黙の間に、私はふと記憶を辿って、口元を緩めた。

「私と翼ってさ、いっつも、同じものばっかり好きになったよね」

 昔からそうだった。同じ色が好きで、同じおもちゃが好きで、同じ食べ物が好きで、時々取り合いをした。だけど好きな人まで被るなんて、思いもしなかった。今更そんなことが、何だか可笑しいと思う。

「二人のそういうところ、ずっと、仲間外れみたいで寂しいって思ってたけど、今は、複雑だわ」

 理沙の声が、震えていた。そっちを向かなくても泣いているんだって分かった。

「アタシが一番、今、複雑だっつうの」

 続けた翼の声も同じくらい震えてて、思わず笑ってしまう。泣かなくてもいいじゃん。そう思ったのに、私まで釣られて泣きそうになって慌てて口元を引き締める。しかし視線を逸らす為に右を向いた瞬間、私の全身から力が抜けた。

「ちょっとさぁ~……」

 涙の気配とか綺麗に消えて無くなった。思わず吐き出した声は低くなってしまって、翼と理沙が驚いた様子で振り返ったのが視界の端に見えた。

「いつの間にか起きてるのはもう慣れたけど、仮にも恋人が前の好きな人に告白してるの聞いて、何で笑ってるの、響ちゃん?」

 さっきまで眠っていたはずの響ちゃんが、身体をくつくつと震わせて顔を覆っている。

「っ、い、息できない……ふっ、ふふ」

「そんなに!?」

 響ちゃんのツボって本当に分からない。何がそんなに面白かったんだろう。震えてる身体は中々その動きを止めようとしなくて、私は宥めるようにその小さな背をゆっくりと撫でた。

「ごめん、響ちゃんって一回ツボに入るとずっと笑うから、ちょっと待ってね……」

 ぽかんとしている翼と理沙にそう言いながら、私は一定のリズムで響ちゃんの背を叩き、これ以上は刺激しないようにと口を噤んだ。

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