第5話_浅はかな熱に気付く

 朝目覚めたら、隣から寝息が聞こえる。そんなことが、妙に嬉しい。隣で眠るきょうちゃんは、私の方へと身体を向けて、少し丸くなっていた。折角広いベッドの上なんだから大の字になるくらい大きく使ってほしいけど、癖なのかもしれない。

 私達は一緒に寝ている。当然、響ちゃんはすごく渋ってソファで良いと言っていたけど、例によって例のごとく私が押し通した。この家にベッドは一つしか無いし、新しく他所から運び入れても置き場所に困る。幸いセミダブルだったので、女二人で寝るくらい少しも窮屈じゃない。彼女もこのサイズを見たら納得してくれた。

 寝惚けた頭で、三十センチくらいの距離にある綺麗な寝顔を眺める。寝てても美人って美人だなとかよく分からないことを考えていたら、少しだけ響ちゃんが身じろいだ。もうすぐ目を覚ますのかもしれない。動いた拍子に肩の位置がずれて、響ちゃんの着ている緩いTシャツの胸元が少しだけ開いた。

「けっこうある……Eくらい……」

 覗いた谷間に思わず感想を述べる。私の頭はまだ寝ていたのだと思う。だけど次の瞬間、ものすごい勢いで覚醒した。

由枝ゆえちゃん」

「ひぁ……はい……」

 心臓が口から飛び出るかと思った。彼女が発した声は少しも寝惚けていなくて、これが寝言でないのは明らかだった。そして響ちゃんは目を開けないままで、口元に笑みを浮かべる。起きてるなら起きてるって言ってよと、ちょっとだけ思ったけど、どう考えても私が悪い。

「思ったこと、口に出すぎ」

「すみません……」

 彼女の指摘に私が変な汗をかいていることも、そのくせ顔色を青くしていることも、まだ目を閉じたままの響ちゃんは何も知らない。ただ口元は笑ったままだったから、怒っているわけではない、と思う。流石に体勢を戻して胸元は隠していたけれど。

 さておき、人と共に過ごすということを、もうちょっと思い出さなければいけないと反省する。週に三日の労働と、週に一度の配給の受け取り。それ以外の時間をたった一人で過ごした一年強で、本当に色々忘れてしまった。こんなにあけすけな性格じゃなかったはずなんだけどな。私が静かに身体を起こしても、響ちゃんはまだ動かない。一度も目を開けていないことから考えて、多分まだ眠いんだと思う。私は大きく身体を伸ばしてから、ベッドを抜け出し、長い髪を高い位置に結い上げながら、朝ごはんを作るべく台所へ向かった。

 今日は私の配給の日だったので、二人で朝ごはんを食べた後、早めに取りに行く準備をする。この間みたいな目には遭いたくない。今日は曇ってるから、大丈夫だろうとは思うけど。

「じゃあちょっと行ってくるね、すぐ戻るから」

「はいはい、行ってらっしゃい、気を付けてね」

 響ちゃんは私に応える時、何だか小さい子供を相手にするみたいに言う。放っておけなくて拾ったのは私の方なのに、甘やかされている気になる時があった。玄関先まで見送りに出てくれることに幾らかのくすぐったさを感じつつも、響ちゃんに手を振って、自転車に跨る。

 堤防に上がると、ついつい橋の下に視線が行ってしまう。誰も居るわけがない。拾ったから家に居る。なのに短い期間ですっかり癖になった。帰りにも振り返っちゃった。当然そこには何の人影も無い。

「ただいまー」

 しかし家の中は静かだった。あれ、嘘、どっか行った? 不安を覚えながら、重たい配給の段ボールを抱えたままで居間に入る。見れば、右の奥にあるローソファで響ちゃんは寝ていた。良かった。……良かったけど、何でかシャツが捲れてお臍辺りまで放り出してるんだけど。どうしてなの。まさか外でもそんな寝方してたわけじゃないよね。

 静かに足元に配給物資を下ろして、彼女に歩み寄る。起きる気配は無い。さっさとお腹をしまって、タオルケットでも掛けてあげるつもりで来たはずなんだけど、いや本当にそのつもりだったんだけど、私はしばらく腹部の前に正座してそこを眺めてしまった。だってめちゃくちゃ綺麗なんだってば。何か薄っすら割れてるんだけど。何かスポーツしてたのかな。しまうどころかこっそり捲って全体を見たい衝動に駆られる。いやでも、だめだよ、だめ。しまおう、うん、しまう。葛藤の末、私は結局触れることも覗くことも無く、裾を整えてお腹を隠した。そしてタオルケットを取りに行こうかと膝を立てたところで。

「んー、ありがとう、おかえり」

 再び眠気を含まない声でそう言われて、両手を床に付いて脱力する。だから。起きてるなら。早めに言って。今回も私しか悪くないんだけど。

「でも、捲られるのか直してくれるのか、どきどきしたなぁ」

「綺麗で見蕩れてた……ごめんなさい……」

「あはは、恥ずかしい」

 そう言うと響ちゃんはお腹のシャツを手で押さえながら伸びをして、小さく欠伸をした。上げられた目蓋もまだ少し重たそうで、寝ていたのは本当らしい。そういえば玄関でただいまって言ったから、それで起きたのかも。響ちゃんが身体を起こしてソファに座る様子を、まだ前に正座したままで見つめる。床に正座してる私と、ローソファに座ってる響ちゃん。ちょっとだけ響ちゃんが高いくらいで、元の身長差のせいか視線が近い。

「寝てていいよ、ごめんね起こしちゃった」

「ううん、平気」

 響ちゃんはまた一つ欠伸してから、柔らかく笑う。そして徐に、座る体勢を変えようとしたのか前のめりになって、私の肩に額が触れるくらい上体を近付けてきた。自分の心臓からすんごい音がした。詰められた距離に息を呑みながら間近に迫る彼女へ視線を落とせば、また胸が見えそうになっていて、その瞬間、あ、と思った。

 ――今更なんだけど、私、女性が好きなんだっけ。

 本当に今更過ぎる。でも今の今まで、この状況が結構まずいということに気付いていなかった。何も知らない響ちゃんに、こんな私が半ば同居を強要したのって、詐欺みたいなものじゃないだろうか。いや、あの時の私に一切の下心は無かったんだけど、それでも。

 視線を落としたままでうっかり固まっていれば、気付いた響ちゃんが顔を上げて可笑しそうに目尻を下げる。

「また胸?」

「ぇええっと、その、いや」

「そんなに胸、小さいイメージだった?」

 私が注いだ視線に響ちゃんは当然、危機感なんて少しも抱いた様子は無い。女性から好意を向けられた経験の無い人だと思う。そんな感じがした。

「えーと、ううん、別にイメージがあったわけじゃないんだけど、小柄だから……」

 視線を逸らしながら慌てて言い訳を述べる。意外だから見ていたわけじゃなく、見えそうだから無用に見つめたんだけど、それを訂正できるわけもない。

「なるほどねー、でも由枝ちゃんあんまり無いよね、細い」

「ぉわ!」

 響ちゃんの手の平が軽く私の胸に触れてきた。視線を逸らしていたせいで身構える暇も無かった私は飛び上がる。響ちゃんは私の反応に可笑しそうにしていて、本当に『下心が無い』ってこういうことなんだろうなって思うくらい、あっさりしていた。

「ごめんごめん、でも背が高くてスレンダーなの、若い頃は憧れたなぁ」

 その言葉に、はたと思考が止まった。若い頃。……重要ではないかもしれないが、そういえば聞いていなかった。

「響ちゃんって、いくつ……?」

「今年二十九」

「嘘ぉ!?」

「あはは」

 家に響くほど大きな声で驚いた私を彼女は少しも意外そうにしない。年相応に見られないのは慣れているのだろうか。でも本当に、全然二十九歳には見えない。落ち着いた雰囲気と物腰から歳上だろうと思っていたものの、『若く見られる二十五歳くらい』だと思った。つまり見た目だけなら私とあんまり変わらない。

「由枝ちゃんはいくつ?」

「私は二十歳です……」

 思わぬ年齢差に敬語に戻ってしまった私に、響ちゃんが楽しそうに笑う。

「若いねぇ。……ああ、そっか。……そうか。成人おめでとう、由枝ちゃん」

 ソファに背を預けて座っていた響ちゃんはそう言うと身体を起こして、私の頭を優しく撫でた。何処か寂しそうに下がった眉とは対照的に、瞳は優しさを湛え、海のように深い色になる。本来であれば共にそれを祝うだろう家族も、成人式という行事も、何も無く私が二十歳を迎えたことに気付いたらしい。「ありがとう」を返した私は確かに笑顔を向けたのに、笑みを返してくれた響ちゃんの眉は下がったままだった。さっきまでは放っておけない人だと思ってたのに、突然、甘やかすみたいにしてくる。やっぱり私よりずっと、大人なんだ、この人。

「それで、配給ってあれ?」

「うん、そう」

 響ちゃんがふと私の背後へと視線を向ける。居間の入り口に置き去りにした段ボール。私が頷くと立ち上がって、響ちゃんはそれに歩み寄った。私も続こうと思ったんだけど、ずっと正座していたから、痺れが残らないようにしないと転びそう。その場に留まって、足先を伸ばした。

「結構重たかったんじゃない? 次からは一緒に行くよ」

「え、大丈夫だよ、今までずっと一人で運んでたんだから」

 確かに重たかったけど、なんやかんやで一年以上この生活をしているわけだから、これからも何とかなると思う。当たり前みたいにそう思って答えたのに、顔だけで私を振り返った響ちゃんが、眉を上げて首を傾ける。

「今は一人じゃないんだから、要らない苦労だよ」

 彼女もそれを、まるで当たり前に呟いた。私は一瞬、戸惑って言葉が出ない。一緒に暮らすのは私の我儘だったのに、一人である意識が抜けていないのは、私の方だった。

 固まっている隙に、軽く中を確認した響ちゃんが段ボールをそのまま持ち上げる。え、嘘。小柄な身体なのに、配給物資は私が持つよりも遥かに軽々と運ばれている。視覚的にすごく混乱した。でもそういえばお腹は引き締まっていたし、Tシャツから覗く腕は、それなりに鍛えられていることが分かる。

「ま、折角だから私も、由枝ちゃんのメリットにならないとね」

 顔を上げれば、配給物資を抱えた彼女は涼しい顔で目尻を下げていた。そしてそのまま、台所の方へと運んで行く。中身がほとんど食材だったからだろう。はっとして、私も立ち上がった。幸い、足の痺れは少しも残っていなかった。

 台所には大きなダイニングテーブルがあり、調理台とするにも、食事をするにも便利だけど、二人で台所内を行き来するにはちょっと邪魔になる。手分けして食材等を片付けていれば、私の後ろ側を響ちゃんが通る。流石に身体を正面に向けたままでは通れないから横に向けて擦り抜けて行った。けどその瞬間、小柄な身体にちょっと合わないサイズの胸が私の背に当たって、驚いた私は咄嗟に避けて、前にあるダイニングテーブルに腰をぶつけた。結構いい音がした。

「あ、ごめん、大丈夫? そんなに避けなくても通れたのに」

「だいじょうぶ……」

 軽く当たったから通す為に避けたと思ったらしい。違います。だけど真実を告げれば「また胸?」と言われてしまいそうだったので飲み込む。いや、でも、今のはずるいよ。どうしてこっちに身体を向けて通っちゃうの。背中合わせで良かったでしょ。項垂れる私を、ぶつけた場所が痛かったとでも思ったのか、慰めるみたいに響ちゃんが背中をぽんぽんと柔らかく叩く。そして配給物資の中から取り出した洗濯用洗剤を抱えて、洗面所の方へと消えていった。

「いや~……まずいよね……」

 意識してしまっているのは何処までもこちらだけだ。当たり前だ。何にも知らない響ちゃんが、同性である私をそういう意味で警戒なんてするはずが無い。考えれば分かるのに、その彼女に何も知らせないままで、同居をさせている。……どの角度で何度考え直しても、これって、結構、まずいよね。

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