第4話_恐怖と安堵を繰り返して

「――はあ? 何だって? アタシの耳がばかになったのか?」

「だから、橋の下で椿つばきの女神を拾ったのー!」

 倉庫の荷物を移動させながら、私は脚立の上で作業をしている幼馴染のつばさに大きな声で返事した。

「あー、ばかになったのは由枝ゆえの方か」

「そんな目で見ないでよ! 妄想じゃないから!」

 ちょっと説明の仕方は悪かったんだと思うけど、何も間違っていない。かの有名な人類の救世主である椿の女神を、私は橋の下で拾ってきた。そして、一緒に暮らすことになった。というか、

「誰だって荒唐無稽に聞こえるわよ、順を追って詳しく話してくれない?」

 背後から透き通るような声が聞こえて振り返る。もう一人の幼馴染が苦笑しながら立っていた。

「理沙、そっち終わった?」

「残念ながらもう一箱。ハサミを借りに来ただけ、ちょっと使うわよ」

「いいよー」

 今、倉庫には私達三人しか居ないから、私は声を張り上げながら、少し離れたところで作業している理沙にも、勿論まだ脚立の上に居る翼にも聞こえるように経緯を語った。何故か女神が橋の下で生活をしていると知ってしまったこと。そして昨日の大雨の中でも橋の下に居たので、放っておけずに家に引き込んで、一緒に住むことを提案したこと。

「お前さー、もうちょっと人を疑い、身を守るって意識をだな」

「同じこと本人にも言われたけどさ、防犯って意味なら最強な同居人じゃない?」

「確かに……」

 どんな屈強な男性を防犯として家に置くより彼女は遥かに強い。また、今生きている人類全てが彼女の顔を知っているのだろうから、そういう意味でも、私個人や家にあるものに対して、悪さをする人だとは思えなかった。物を盗らなきゃいけない身分でもないわけだし。

「それで女神様は了承して下さったの?」

「ううん、めちゃくちゃ渋ってたから、『出て行くなら私はあの橋の下で戻って来るまでずっと待つ』って言ったら折れてくれた」

「紛うこと無き脅迫」

 作業を終えて脚立を下りると、翼は呆れたようにそう言った。まあ、うん、そうだなって自分でも思う。思うけど、私はあのまま彼女を外に送り出したくなかった。そうなるくらいなら、本当に橋の下で生活しても良かったし、もしくは訴えられて、みんなに袋叩きにされた方がマシだと思えた。お節介とかそういうレベルの話ですらない。これは私の我儘だ。

「お前って、犬とか猫とか拾っちまうような性格してたかぁ?」

「えー、私って冷たいやつって位置付けだったの?」

「別に、そうは言わねえけどさー」

 話を続けながらも作業を進め、私と翼が片付けていた箱が空になったタイミングで、まだ作業している理沙を手伝いに向かう。

「あ、丁度良かったわ、翼、これ、あの一番上なの」

「おっけ、じゃあアタシがやるわ」

 理沙は脚立を渡して欲しかったようだけど、翼はそれを立てるとさっさと上ってしまった。彼女は身軽だ。流石は元剣道部。関係ないかな。もしも彼女が霊付きだったら強そうだって思うのに、彼女も私達と同じ、無霊だった。霊付きは、何を理由に、何を基準に、霊に選ばれているんだろう。

「よし、これで完了だな」

「ありがとう、翼。……そうねぇ、信じ難い話だけど、それでも由枝が一人じゃない生活を選んでくれたこと、私は少し嬉しい」

 理沙から向けられた目が優しくて、私は笑いながら、少し俯いた。私が一人で暮らすことを、二人は長く反対してた。二人のところに一緒に住もうという提案も、二人が来て私の家に一緒に住んでくれる提案も、私は断り続けた。その理由は色々告げたけど、本当の理由は一度も話していない。

「じゃあ、報告して帰ろうか、そろそろ日も暮れちゃうんじゃないかな」

「……そうね」

 彼女らの目を真っ直ぐ見ることなくそう言って倉庫を出る。翼はどうか分からないけど、理沙は多分、話題から逃げようとしたことに、気付いていると思った。

 私は自転車を押しながら、徒歩で来ている二人と並んで歩く。二人の家は、役場に行くにも、職場に行くにも歩いて十分程度で、割と便利な位置にある。分かれ道まで歩いてから自転車に乗っても、日暮れには余裕で間に合いそうだ。そう思いながら空を仰ぐと、サインペンを引いたみたいな長い黒の線が見えた。

「あ」

 同時に、サイレンが鳴り響く。線は次第に太くなり、穴が開き始めた。私は息を呑み、自転車に跨ろうとした。家に残して来た彼女。早く戻らなきゃ――。

「ばか何やってんだ由枝! アタシらは避難するんだよ!!」

 横から翼に力強く引っ張られ、自転車から引き摺り降ろされる。自転車が盛大に倒れた音はサイレンに掻き消されて聞こえなかった。

「けど、家にまだ!」

「お前が拾ったのは椿の女神なんだろうが! 出動だよ! 家に帰ったって居やしねえ!!」

 彼女の指摘はもっともだ。理沙は先を走り、辺りを見回して、近くの民家に飛び込んだ。私は翼に腕を引かれ、すがまま足を動かす。

「開いてる!」

「急げ!」

 元々が誰の家だったのかは分からない。だけど今、誰も住んでいないようだ。現在進行形で誰かが住んでいる場所には役場から支給されている白い旗を、玄関付近の目立つところに立てることになっている。だから、それが立っていない場所は全て好きに引っ越せるし、また、このような避難指示のサイレンが鳴った時には避難所となる。とにかく私達のような無霊の人間は、サイレンと同時に一刻も早く屋内に身を隠さなければならない。そして指示の解除があるまで、決して、外に出てはいけない。窓の外を覗くことも禁止だった。人間の姿を見付ければ、あれらは真っ直ぐ向かってきてしまうから。

 私達は入り込んだ民家の奥へと進む。雨戸が閉ざされていて、真っ暗だ。人気は無く、がらんとしていても、家具は残っていた。あの四月九日までは、誰かが暮らしていたんだろう。

「ラジオは見当たらないわね、テレビも……今日は無いかな」

 理沙が奥にあるテレビのスイッチを入れてみると電源は入ったけれど、チャンネルはどれも砂嵐だった。

「家以外でサイレンが鳴ると、これが不便だな。情報が無くて落ち着かねえ」

 大きく溜息を吐きながら翼は、並んで座る私と理沙の正面に座った。全員が黙ると、部屋はしん、と静まり返る。外からは特に何の音も聞こえてこない。霊付きが戦ってくれているのだろうと思うが、分からない。本当はみんな逃げてしまって、あれらが自由に人間を探して彷徨っているだけなのかもしれない。三人の鼓動が、部屋の中に響いている気がした。サイレンが鳴ったら屋内に籠るだけの私達が、怖く思わない日は一度も無い。無霊が、何をどうしても抗えないことを知っている。捕まったら、もう駄目だって知っている。あの日は逃げ切れたけど、次は駄目かもしれないって知っている。私達はそんな恐怖を絶対に口にしないままで、避難指示解除のアナウンスだけをじっと待ち続けるのだ。だけど今日は一人じゃなくて、子供をあやすみたいに私の背中をのんびりと撫でている理沙が居て、さっきのことを一言も怒ろうとしない翼が居た。

「翼、さっき」

「んー?」

「……ありがとう、止めてくれて。ごめんね、手間、掛けさせちゃった」

 隣の理沙が私の肩に凭れ掛かってきて、背中をとんとんと優しく叩いた。私の言葉に何だかちょっとだけ、喜んだ気配がした。

「お前に手が掛かるとか、何年振りかと思った。いいもん見たわ。たまには世話させろ、ばか由枝」

「はは」

 二人は今、理沙の実家に住んでいる。私の実家もその近くにあり、私達は幼稚園からずっと一緒に育った。三人いつも一緒だったけど、二人と一人になったのは、私の勝手な感傷。二人は何にも悪くない。平たく言うなら年頃だったんだと思う。高校二年の冬、翼と理沙が恋人同士になったって知った。私達三人の関係は変わらないから気を遣わなくていいって二人は言ってくれたのに、私が勝手に距離を取った。理由は疎外感じゃない。もっと下らない理由。私は、私も、理沙が好きだった。

 三人で暮らそうって言われて断っているのも似たような理由。とは言え私は別に、彼女への想いを残してはいない。当時は自棄やけを起こして色んな女の子と遊ぶみたいな馬鹿もやらかして、色々あって頭も冷えてる。でも、だからって一緒に暮らすとか流石に勘弁してよと思った。こんな終末世界で、色恋が理由だなんて下らないって、事情を知ったら言う人が居るかもしれないけど、私はむしろこんな世界だからこそ、色恋なんかを蒸し返すのは止めてよって思っただけ。

 ただ時々思うのは、私が遊ぶみたいに関係を持った子達はきっともうほとんど生き残っていなくて、私みたいな馬鹿がまだ生きてて、世界って結構、無慈悲なんだなってこと。だけど翼と理沙の二人が二人で生きていることは、救いだと思う。本当に。

『――避難指示を解除いたします。ご協力ありがとうございました。そして、立ち上がった本日の、十六名の勇敢な霊付きの皆様に、心より感謝申し上げます』

 三十分くらい経った頃、アナウンスが響き渡り、私達はまるでずっと呼吸を止めていたみたいに息を吐いた。アナウンスの向こうからは複数の人が拍手している音が長々と続いている。私達も手元で、誰にも届かない拍手をした。

「良かったな、きっと椿の女神もすぐに帰って来るだろ。ほら、アタシらも帰ろう、いよいよ日が暮れちまう」

「うん」

 一番家が遠い私に、二人が急いで帰れって言ってくれたから、いつもの分岐路に付く前に自転車に跨り、家路を急ぐ。家に到着した頃にはちょっと急ぎ過ぎていたのか、肩で大きく息をしていた。玄関前で少し呼吸を整えてから、扉を開く。

きょうちゃん!」

 玄関から、大きな声で呼んだ。椿の女神の本名は、『きょう』って言うらしい。椿の女神と呼ばれるのが恥ずかしくてならないと言うので、名前を呼ぶことにした。確かに一緒に住むんだし、椿の女神って長いもんね。私の声の余韻が消える頃、まだ帰ってないのかな、と不安に思う頃。縁側の方でごとんと音がした。

「はいはい、何ですか由枝ちゃん。おかえりなさい」

「あ、良かった、もう帰ってたんだね。怪我は無い?」

「うん、無いよ」

 一緒に住むんだから敬語も取るように言われたので普通に話すけど、実はまだちょっと緊張してる。慣れてない。戸惑いながら言葉を選んでる気配が伝わるのか、響ちゃんは私を見て可笑しそうに目尻を緩めた。しかし縁側に軽く腰掛けた彼女は、部屋に上がってこようとしない。私はそちらに歩み寄り、座ったままの響ちゃんを見下ろした。

「響ちゃん、何してたの?」

「ん、洗濯物を取り込んでた。あとは由枝ちゃんの下着だけなんだけど、あれは私が取り込んでも構わないのかな?」

「あっ、だめ! 自分で取る!」

 彼女が指差した方向に、私の下着だけがひらひらと揺れていた。それ以外は、彼女の足元の籠に全部回収されているようだ。響ちゃんは私の慌て振りに楽しそうに笑って、籠を抱えながら入れ違うようにして中に入っていく。そして私が自分の下着を抱いて戻ると、洗濯物を畳み始めてしまっていた。

「響ちゃんいいよ、私がやるから。疲れてないの?」

「全然。それよりご飯作ってもらえたら嬉しいなぁ、お腹すいちゃった」

 そう言った響ちゃんは、何処か照れ臭そうに笑う。彼女は炊事一切が出来ないそうだ。そりゃ温かいご飯が久しぶりとかいう話になるわけだよね。それ幸いと私は最後の一押しに「毎日温かいご飯を作るから」という約束も付け足して、此処に住んでもらうことに、成功している。

「うん、すぐに夕飯作るね」

 私の言葉に応じて嬉しそうに目尻を下げた彼女を見たら、避難指示解除のアナウンスを聞いた時より、帰宅して彼女の姿を見付けた時よりも、全然違う種類の安堵が身体中を満たしたような気がした。

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