第3話_子供みたいなわがまま

 朝から曇り空で、夕方には雨が降り始めていた。もう梅雨に入ったのかな。随分と分厚い雲が空を覆っている。普段の移動が自転車である私には梅雨の季節はかなり不便になるのだけど、あれらがやってこない生活に勝るものは無い。

 とは言え、別にあれらが「雨や曇りの日には襲いません」と宣言したわけではないので、絶対じゃないのが怖いとも思う。

 ただ、私は今それよりも少し、椿の女神が気掛かりだった。橋の下で生活しちゃうような、あの女神様が。橋の下なら雨は凌げているに違いないが、風が強くなったら濡れないとも限らないし、あの場所には濡れた服や髪を乾かすものは何も無い。いや、そんなこと私が気にしなくたって彼女は絶対に分かっている。心配することなんか何にも無いはずだ。毎日あんな場所に居るわけじゃないって言っていたし、今日が例外の日に決まってる。何度もそう思い直して思考を振り払うのに、私は結局、雷の音が激しさを増してしまってから、雨具を着込んで玄関に向かった。

「ちょっと見るだけ、見て、居なかったらほら大丈夫だったじゃんって気持ちよく眠れる!」

 自分の愚かな選択を励ますかのように叫ぶも、雨音と雷鳴に掻き消された。家を出て数歩進んだだけで、しっかり着込んだはずの雨具が関係ないと思うくらいの風と雨。やっぱり、こんな状態じゃ橋の下に逃げたところで絶対に濡れてしまう。逸る気持ちを抑え、滑って転んでしまわぬように慎重に坂を上り、堤防の上からいつもの場所を見下ろした。いつもの位置に、彼女の姿は無かった。

「良かった、やっぱりちゃんと、何処かに」

 そう言いつつも念の為、堤防を下りて私は橋の下に入り込む。横殴りの雨は、橋の下に入っても尚、私の雨合羽を叩いている。ぐるりと見回して、よし、帰ろうと――思った足が止まった。彼女は居た。いつもの場所じゃなくて、壁に引っ付くみたいにして身体を小さく丸めている。何処が頭なのか正直判別が付かない、あの人がよくこの場所に居るんだって知っていなければ、彼女であるという確信は持てないような姿だ。明らかに、様子がおかしいと思った。

「椿の女神さん!」

 慌てて駆け寄り声を掛ければ、頭が生えた。あ、そっちが頭だったんだ。ちょっと思っていた場所と違ったので駆け寄る位置を変え、彼女の傍に膝を付く。暗がりで見ても分かるほどに、顔色が悪い。やっぱり何かおかしい。こんな状態で、こんなところに居ちゃいけない。なのに彼女は私を見ると、口元に不格好な笑みを浮かべた。

「こんな、雨の日に、お散歩?」

「いえ、あなたが居るかもって、気になっ――」

 言葉途中、眩い光と共に爆発音のような雷鳴が響いた。その中に微かに混じった悲鳴、私のじゃなかった。彼女はさっきよりも一層身体を小さく縮めて、異常なくらい身体中を震わせていた。

「雷が……」

 恐いんだ。しかも怯え方が尋常じゃない。恐怖症とかそういう類だと察して、慌ててその身体を抱き締めた。効力なんて何も無いだろうけど、震えてるから、咄嗟にそんなことしか出来なかった。

「うち行きましょう! 此処じゃ、音が響くばっかりだから!」

 雨音に掻き消されてしまわないように大きな声で叫ぶ。橋の下で、声が反響した。彼女は呼吸も幾らか震えていて絶対に余裕なんか無いはずなのに、それでも、首を横に振る。

「いい、大丈夫だから」

 何処にそんなことを言える要素と根拠があるのだろう。それとも、余裕が少しも無いから、何にも根拠が無いこんな言葉が出てきてしまうのか。応じようとしない彼女に、私は一つ息を吐いた。

「分かりました、じゃあ私も雨が収まるまで此処に居ます」

「は?」

 彼女は耳を疑ったような顔で、何度か目を瞬いてから私を見上げた。驚く顔は、初めて見た。

「だ、駄目でしょ、そんな濡れてたら、あなたが」

「居ます。それが嫌だったら、家に来てください。どっちかです!」

 風で飛んでくる雨の飛沫しぶきを浴びた程度の彼女より、さっき家から移動してきた私の方が余程濡れている。もしもこの状態のまま夜を明かせば、間違いなく風邪を引くだろう。もう医療も容易く受けられないこの世界じゃ、風邪どころじゃ済まない可能性だって大いにあった。分かった上で私はそう言った。この時の私は、頭がおかしかったと思う。椿の女神を相手に、こんな脅迫じみた取引、していいはずがない。後日役場に言われたら即座に袋叩きにされる。配給は永久に停止かもしれない。でもこのまま帰ったってさっき以上に気になって一睡も出来ないのは分かり切っていた。傍に居るか、連れて帰る、絶対にそれ以外の行動は選ばない! 表情から、私の頭がおかしい――もとい、私が本気であると理解したのか、彼女は微かに眉を下げた。

「分かりました、お邪魔します……」

 返答を聞くや否や持ってきた予備の雨合羽を彼女に被せ、いつ鳴るとも分からない雷を警戒しながら徒歩一分の私の家に逃げ込んだ。幸い、雷はごろごろと空の上で唸り声を上げるだけで、先程のような轟音を響かせない。しかし玄関でほっとしたのも束の間、稲光、そして身体にも響くような音。また何処か近くに落ちたらしい。彼女は再び、頭の位置を見付けられない塊に戻っていた。

 その状態の彼女を何とか居間まで運び、服を着替えてもらって、ドライヤーで髪を乾かした。お風呂で温まれたら完璧だけど、こんな木造の平屋では何処からか電気を通してしまうかもしれないので無理だ。すっかり怯えてソファの上で小さくなっている彼女に、これ以上、してあげられることは何も無い。ただ、自分の身体よりも二回りくらい小さい塊を抱き締めて、早く音が過ぎて行くようにと祈った。

 人類の最後の希望と言われる椿の女神が、私よりずっとずっと身体の小さな女性だったんだって、知った。


 目を覚ませば、深夜二時。

 いつの間にか二人で眠ってしまっていたらしい。雷の音はもう聞こえない。雨の音も、随分優しいものに変わっていた。

 そして私から倒れ込んだのか、半ば覆い被さるようにソファで横たわっている状況に「やば……」と小さく漏らす。物理的に潰していないかを慌てて確認した。良かった、雷が鳴り響いていた時よりずっとまともに人間の形をしてる。本音を言うと『人体の不思議』ってくらい縮んでたから元に戻るのかを心配してた。しかもその状態で私が圧迫しちゃってたんだから固まっちゃうかと。静かに身体を起こすと気配に応じて彼女が身じろぐ。ころりと小さな身体が腕の中で動く様子を、息を潜めて見守った。この人、丸まっていなくても、すごく身体が小さい。

 いやいや、そんな場合じゃなかった。どうしようかな、このまま寝かせておいて大丈夫かな。迷いながら身体を起こすと、彼女の目蓋がゆっくりと持ち上がる。起こしてしまったらしい。目の前にある私の腕を見て、それから私の顔を見上げて、数回の瞬き。

「あー、驚いた……そっか……」

「驚いた顔してないですね」

 思わず笑ってしまった私を見つめて、彼女も口元を微かに緩めた。良かった、少し落ち着いているみたい。でも酷く震えている最中にも弱音を吐いたりしなかったから、心配は少し残る。

「っていうか、そうだ、ごめんなさい、乗っかって寝てたみたいで。何処か痛みます?」

「ううん、平気。温かかったんだろうなぁ、眠い……」

 そう言いながらも、彼女は続けて寝ようとはせずに身体を起こした。もうこの身体を小さいと知っているのに、目の前にある遠い肩の位置に、改めて驚いた。何度か顔を合わせているけれど、私は何となく近付き過ぎないようにしていたから、ぴんと来ていなかった。

「ん?」

「あ、いえ、こんなに小柄だと思ってなくて、驚いて」

 テレビ越しに勝手な印象を抱いていた私の言葉は不躾だったと思うのに、彼女は目尻を柔らかく下げただけだった。

「はは、あなたの背が高いから余計かな、色んな所で寝れて便利だよ」

「それはちょっと……どうなんでしょう」

 確かにこの小さな身体なら、私には窮屈と思える空間でも入り込んで眠れるだろうけど、そんな長所、要らないと思う。というか長所かどうかも怪しい。落ち着いて眠れる場所を広々と使って休んでほしい。

「さて、ごめんねぇ、心配させて。そろそろおいとまします」

「えっ駄目ですよ」

「だめって言われても」

 眉を下げて彼女が笑うと、さっきの頼りない姿を思い出してしまう。こんな深夜に容易く見送ることは出来ない。雨だってまだ止んでいない。

「お風呂入れますから、まず身体を温めて下さい。それから軽く夜食も用意します」

「いや、そんな」

「すぐ用意するんで、出てっちゃ駄目ですからね!」

 遠慮の言葉を口にしそうな気配を察知し、私は遮るようにそう言って立ち上がった。まず真っ直ぐお風呂場に行き、今日一度洗ってあるから軽くシャワーで全体を流した後、お湯を張る。その後は台所に入り込んで、すぐに出せそうなものを手早く用意した。お昼にお味噌汁を作っておいて良かった。十分足らずで並べた夜食に、彼女は困った顔を見せながらも、もう抵抗を口にしなかった。

「温かいごはん、久しぶり。美味しいね」

「一体どんな食生活を……」

 お味噌汁を一口飲んで、彼女はそう言う。美味しいという感想は心から嬉しい。だけど本当にどうして椿の女神ともあろう人がそんな生活になるのだろうか。彼女が望みさえすればきっと、今生きているどんな人間よりも満たされた生活が用意されるに違いないのに。でも、食事を終えて、丁度用意が済んだお風呂に入った後も、彼女は何処か無防備に笑いながら、湯船が久しぶりで気持ち良かったと言った。

「椿の女神さんは、どうして外で生活をするんですか? 家なんて、私達なんかよりずっと良い場所を、用意してもらえたんでしょう?」

 私の問いに、彼女は何故か首を傾けて笑う。それから、言葉を選ぶ様子で天井をぼんやり見上げた。

「誰かが住んでいた家は、無人になっていても、何だか居心地が悪いよ。だけど元の家にはもう、戻れないから」

 彼女の言い分は、私にもよく分かるものだった。私もこの家以外に住めと言われたら、自分の家だと考えて今のように過ごせるかは疑問だから。

 この家は、あの四月九日に亡くしてしまった自分の祖父母の家。両親と共に暮らした家も近くにあったから、大きくなってからも此処にしょっちゅう訪れては、家族みんなで過ごした大切な場所。だから、橋の向こう側より不便でも、役場がちょっとだけ遠くても、私は此処を選んだ。

 彼女が『元の家に戻れない』と言う事情については分からないけれど、壊れていたり、遠くだったり、触れるには苦し過ぎる思い出があったりすれば、そういうこともあるんだと思う。私は彼女が閉ざした蓋の奥へ触れるようなことはせず、その蓋を温めるようにそっと小さな手を取る。小柄な身体に比例して、その手はやっぱり私よりずっと小さい。顔を上げた彼女の瞳はまた、椿の花と同じ色であるように見えた。

「此処にも、居られませんか?」

 少し目を大きくしてから、微かに眉を下げた彼女が何か言いたげに唇を動かす。彼女が紡ごうとする言葉を待つかどうかを、私は少しだけ迷った。

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