いつか見た贈り物
タカゲ
第1話
関ヶ原合戦からちょうど二十五年の月日過ぎ去った暑い湿潤な夏を終えた時期であった。梅雨の時期に大量の雨が降ったおかげで豊作になると見込まれており、人々は収穫を楽しみに明るい気持ちでいる。それは虎之助の藩の領民も例外では無かった。ところが、城の中はそれとは裏腹に静寂に包まれている。
病床に伏す父を目の前に、わずか七歳である虎之助は、情けない自分の姿を見せない為に必死に涙を堪えていた。その側には彼の祖父や代々仕えてきた重臣達の姿もある。
虎之助の父は家臣からも、領民からも慕われており、まさに名君と呼ぶに相応しい人物であった。だが、そんな人物であっても病気には打ち勝てない。その命の灯火は今にも潰えそうな程になっている。
「父上、先立つことをどうかお許し下さい」
虎之助の父は消え入りそうな声で言った。祖父は目を瞑り何も言わない。虎之助と同じように涙を堪えているようにも見える。
「私は虎之助と二人きりで話したい事がある。しばし、他の者は退室してくれぬか?」
父上の声に重臣達は顔を見合わせ、ゆっくりと一人一人部屋を出て行った。最後に祖父も部屋を後にし、襖を静かに閉めた。
「虎之助。まだ幼いお前を残してしまうなど、不甲斐ない父を許してくれ」
その言葉に虎之助の瀬戸際で堪えていた涙腺は崩壊した。父はゆっくりと虎之助の頬に手を当てた。
「藩主たる男がそう簡単に泣くではないぞ。私がこの世を去れば、この藩の藩主はお前になるのだからな」
その言葉にますます目から溢れ出す涙の量は増えた。一人の少年の泣き声だけが室内に響き渡る。
それから虎之助が少し落ち着いたところで、父は再び声を発した。
「お前をここに一人だけ残させたのは、話したい事があったからだ。私の昔話だ。父の最期の言葉と思ってどうか聞いて欲しい」
一息おいてから虎之助の父は語り始める。
満月の夜、私は城の縁側で酒を一人で飲んでいた。白く濁った酒は月の光に照らされて輝いて見える。眺める中庭には虫の鳴く声以外の音は聞こえない。
先日十六歳を迎えて、元服し
酔わないように少量だけ飲んでいるつもりであったが、すっかり頭はボーッとしている。足に力を入れ立ち上がる。
ふと、中庭に置かれている大きな石が青白く光ったように感じられた。月は雲に完全に隠れてさっきよりだいぶ暗くなったので、余計にそう見える。酒で酔っているせいだろうと思ったが、少しばかり気になってその光る石に歩み寄ることにした。
苔が生えていて、高さは三尺ほどもある巨石だ。この石はいつから存在していたのだろうと私は常日頃から思っていた。
しかし、石が光っていたように感じられたのは、私の思い違いだったようだった。そろそろ寝るかと、縁側の方振り向こうとした。
その時だった。酔っていたのと辺りが暗いのが相まって、地面に置いてあった拳を一回り大きくしたくらいの石に躓いてしまったのだ。
私はその大きな石の方に倒れ込んだ。その時もまた、青白く光っているように感じられた。頭を強く打ち私の記憶はだんだんと薄れていった。
目を覚ますとそこには見慣れない光景が広がっていた。赤い鳥居に木でできた社殿、どうやら神社の境内に居るようだ。時は夕暮れ時でカラスが鳴いている。
ゆっくりと立ち上がりあたりを見回す。人影は見えない。まだ頭を打った衝撃でぼんやりとしている。
社殿の方に近づくと、その側に城の中庭にあった石に非常に形の似た石があることに気が付いた。城のものに比べ、かなり苔むしているようだった。
神社の名前で地名が特定できるかもしれない。そう思って神社の名前が記されてありそうな所を探し回る。
「あなたは誰?」
突然後ろから声を掛けられ、びくりとした。かなり独特な鈍りの少女の声で、なんとかそう聞き取ることができた。
後ろを振り向くと、その少女の姿を確認することができた。歳はそんなに私と変わらない印象を受ける。珍妙な服装をしていて、上半身は着物のように見えないことはないのだが、下半身は足の形がはっきりと分かるようになっている。初めて見る服装である。
あなたは誰だ、という少女の問いに三胤とだけ答える。いまいち状況が読み込めずにいた。
「初めて見る顔、それにお侍さんのような格好をしているのね」
侍も何も戦場にはまだ出たことはないが、一応私も武士である。今は帯刀こそしていないが、正装はしている。
「ここは何処です?」
この少女なら何か知っているかもしれない、そう思って聞いてみた。少し不思議そうな表情をしながらも、答えてくれた。
「福島県よ。流石に疎開で来るような年齢には見えないし、いったい何処からきたの?」
生憎なことに”福島県”という地名は聞き覚えがない。それにいまいち少女の言葉の意味が理解できない。
「ソカイって何?」
ますます少女は不思議そうな顔をする。
「ほら、東京みたいな都会にいると、空襲の被害に遭っちゃうかもしれないじゃない。だから子供達がここみたいな田舎に集団移動してくるの。それを疎開って言うのよ」
今度はトウキョウとかクウシュウだとかまた知らない言葉がポンポンと出てくる。彼女の訛りもあって相当に言葉の意味を理解するのは難しい。
「越後はどちらの方角にありますか?」
取り敢えず農民の娘でも辛うじて知っていそうな有名な地名を出して、現在地を割り出すことにしたのだ。しかし、少女からは衝撃の答えが返ってきた。
「本当に不思議な人ね。今どき越後なんて呼ぶ人は居ないわよ。新潟って言うのよ」
それから似たような質問を繰り返したが、どれも似たような返答が返ってくる。そして、一つの結論に辿り着いた。ここは遥か未来の世界であるということに。
少女の名前は土屋サチヨというらしい。サチヨも私が過去から来たということを信じてくれている様子だった。サチヨはお参りする為にこの神社に来たのだという。
こちらの世界では今は7月の下旬、サチヨはよく分からない暦を使うが、関ヶ原合戦というあちらの世界で後もう少しで起こる戦いからちょうど345年後だと教えてくれた。およそ350年前の世界から来たのだ。
関ヶ原合戦で敗れ、斬首された人物の名は私が元服する際に”三”の文字を与えた人物と同じ名であった。だが、今はそんな事を考えている場合ではない。サチヨは取り敢えず家に来ないかと、提案をしてくれた。
鳥居をくぐり数段だけある石段を下っていくと一面が田んぼであり、ポツポツと木造の家が建っている。若々しく立派に生えている緑色の稲は、夕陽に照らされる水によってかすかにオレンジ色を帯びている。数は少ないがトンボも飛んでいた。しかし、眺めの良い田園風景にも拘らず、見渡す限り人影はない。
神社は田んぼの中心の小高くなっている所にポツンと佇んでいた。他のあぜ道に比べ、神社に続く道は牛車が通れるほどに道幅が広い。
サチヨに連れられるがまま、私は一件の家に案内された。黒みを帯びた木造家屋だ。他の家に比べて大きく豪華な見た目をしている。サチヨは戸を開け「ここよ」と言う。
入ってすぐの所は土間になっていて、かまどなど色々な物が揃っている。さらにその奥は一段上がっていて襖で土間と分けられている。その向こうが居住空間になっているのだろう。ここには人の姿はない。
「お母さーん。帰ってきたよ」
サチヨは奥の方に向かって元気に叫ぶ。すると、足音がして襖が開いた。サチヨの母親は娘の顔を見た後、驚いた様子で私の目を見つめた。彼女もサチヨと似たような服装をしている。
「そちらのお兄さんはどちら様?」
「この人は家が焼けちゃったみたいで、歩いて祖母の家に向かっている途中みたいなの。すぐそこの神社の所で倒れていたから、取り敢えず家に来ないかって言った」
サチヨはあらかじめ母親にどう説明するか考えていたのか、すらすらと言葉を並べる。母親はいまいち腑に落ちないと言った表情を浮かべているが、泊まることと夕食をご馳走になることを承諾してくれた。
襖の奥は畳がずらりと並べられた部屋になっていた。少し緑っぽさのある土壁が襖のない二方を囲っている。壁の上の方は木の柱が剥き出しになっており、そこには非常に精巧に描かれた肖像画が何枚も並んでいた。白と黒の二色で描かれているのに、生き生きとした表情をしている。まるで、ある瞬間をそのままくり抜いて、貼り付けているようだ。
真ん中には丸くて脚の短い木製の台が堂々と置いてあり、その周りでは小さな二人の子供たちが戯れていた。サチヨの弟と妹だろう。
まだ六歳くらいであろうその妹が私の事を指差して「兄ちゃんが帰ってきた」と言った。もっと年下に見える弟も「本当だぁ」と続いた。
「違うわよ。こちらは三胤さん。さっき田んぼの所の神社でたまたま会って、寝床を探しているみたいだったから家まで来てもらったの」
サチヨがそう説明した。妹たちはがっかりした様子でそっぽを向き、再び遊び始めた。サチヨの話だと父や兄は戦に行っているのだ。兄の話題がでて部屋は少し気まずくなってしまった。
「あの肖像画はいったい誰なの?」
沈黙の居心地の悪さに質問した。並んだ肖像画の人たちは皆真剣な眼差しで私を見下ろしているように見えた。
「あれのことかな? あれは肖像画じゃなくて写真っていうの。絵なんかよりとってもリアルでしょ。それで一番左の人が曽祖父で次が祖母、その隣は祖父で、他の人たちもみんなそんな感じ。でも、全員この世には居ない人たちだけとね」
聞くんじゃなかったと今になって後悔した。中にはサチヨの妹や弟と年齢の違い子供の写真もあった。その子供はきゅうりを咥えて庭に座っていた。痩せていてあまり健康そうには見えない。
それからしばらくしてサチヨの母親が夕食を持って土間の方から上がって来た。それまで写真というものをじっくりと眺めていた。
五人分の茶碗が運ばれて、その後に紫色の皮をした芋のような物が運ばれた。茶碗の中には汁物が入っている。緑色の葉物野菜と本当にわずかな量の米粒だけが入っている。それと、紫色の芋はサツマイモというらしい。
300年以上経っても、なお人々がこんなに貧相なものを食べているのかと驚いてしまう。私の普段食べている食事はもちろん、あちらの世界の農民たちが食べているものよりも貧相かもしれない。
同じ戦乱の世の中であるが、領内で食事に困ったなどという話は少なくとも父や祖父からは一度も聞いたことがなかった。
汁はほんのりと塩味がするだけでほとんど無味であった。サツマイモの方も五等分に分けられて量は全然ない。サチヨはもちろん、幼い妹や弟も不平を漏らすことなく、黙々と食べている。すべてを食べ終わるのに時間は掛からなかった。
慣れない枕に頭を乗せ、布団の上で横になる。あたりにはサチヨやその母親たちも横になり、寝息を立てている。蚊除け網の中で、天井を見つめながらどうやって帰ろうかと考えていた。
「三胤さん。起きてます?」
サチヨの声だ。小さな声だが、はっきりと聞こえる。
「ああ、起きている。どうやって帰ろうか考えていた」
「明日、もう一度神社に行ってみます? あそこに現れたみたいですから、何か手がかりが見つかるかもしれませんし」
「そうだな。そこくらいしか、手掛かりがありそうなところは思い当たらないしな」
「それなら、わたしも一緒に神社に行くわ。本当は今日したかったことができなかったし。昼は学校の方に行かなきゃいけないから、朝になるけれど」
「一人だと不安だから、そうしてくれると有り難い」
縁側から差し込む月の光が酒を飲んでいた時の光の度合いによく似ているなと思う。そして、父や家臣たちの姿も頭に浮かぶ。もう二度と帰らなかったらどうしよう。不安でしょうがなかった。
「お願いがあるの。聞いてくれるかな?」
サチヨはそう言った。ここに来てから世話になりっぱなしだったから、断るつもりはない。「どんな内容だ?」と訊く。
「帰ったら、三胤さんの子孫たちに渡して欲しいものがあるの。もしその渡した物を持っている人を見つけたら、三胤さんの子孫なんだなって分かるから」
サチヨは私が帰れないなどと微塵も思っていない様子だった。それとも、私を不安にさせない為に、わざと帰れた後の話をしているのだろうか。
「いったい、その渡して欲しいものって言うのはなんだ?」
「小袋。かなり古いんだけど、赤色の鮮やかな布でできたやつ。おばあちゃんが実家の倉庫で保管されてた古い壺を割っちゃったみたいで、その中から出てきたらしいの。売る為に持っていたらしいんだけど、おばあちゃんは死ぬ直前にこれを渡してくれたんだ。もちろん理由は分からないわ」
「そんな大切な物をいいのか?」
「大切じゃないわ。おばあちゃんは性格が悪くて、大嫌いだった。向こうもわたしの事嫌ってたと思う。だから死ぬ直前なこれを渡してきたことが不思議でしょうがなかったけど」
「そうか......」
それ以上適切な返答が思い付かなかった。
「明日、神社に行ったら渡すから」
子孫か。まだ正室を持たない私にとっては考えたことのないことだった。私があちらの世界に帰らなかったら、今ここに存在する私の子孫たちは無かったことになるかもしれない。だから、彼らの為にも私は絶対に帰らなければいけないのだ。
「サチヨさん。考えてみたんだけど......」
返事はない。微かな寝息だけが静かな夜に響く。寝てしまったのだな、そう思って私もまぶたを下ろした。
私が一番起きるのが遅かった。目を覚ました時にはすでに周りの布団は片されていて、蚊除け網ももう無くなっている。土間の方からはバタバタと足音が聞こえてくる。
まだ微かに気怠い上半身を起こし、辺りを見渡す。サチヨの姿はなく、彼女の妹と弟が仲良くサツマイモを頬張っているのが見えた。
僕が起き上がるのを見ると妹が「お母さん、起きたよ」と土間に向かって、幼く純粋な声で言った。
「あら、三胤さん、お目覚め? サツマイモで良ければ朝食はあるけれど」
土間から扉越しにサチヨの母親は言った。確かに腹は減っている。だが、私はその提案を丁重に断った。ただでさえ食料がないであろうに、これ以上ご馳走になるのは申し訳なかったからだ。サチヨの母親もその事を察してか、これ以上強くは勧めてはこない。
一緒に神社に行こうと約束しているからサチヨはまだ家の中にいるだろう。サチヨの母親に居場所を尋ねようと思ったとき、奥の部屋に続く襖が開き、そこからサチヨが現れた。手には紅い小袋を持っている。あれが昨晩話していた祖母からもらった小袋だろう。
鮮やかさを失うほど古い物だと推測できるが、遠目ではわからないほどに模様が細かいことが分かる。
「三胤さんはもう準備は大丈夫?」
サチヨは壁に掛けてある木の枠でできた円状の物を確認しながら言った。零から十一までの漢数字が等間隔に並んでいて、長いものと短いものの計二本の針がちょうど真ん中に取り付けてある。
その長い針と短い針がほんのわずかに右回転の方向に動いた。ちょうど長い針は零を示し、短い針は八を示している。
「私はいつでも出れる」
サチヨの問いに答えてないことに気づき、咄嗟にそう答えた。あちらの方も準備は万全だったようで「じゃあ行こうか」と言った。
礼を言って家から出た。「困った時はお互い様よ」とサチヨの母親は言ってくれた。母親だけでなく、妹たちも見送りに来てくれた。
晴天の朝日は夏であるのに、暑いとは思わずに心地よいものだった。田んぼの真ん中に続くあぜ道を私とサチヨは歩んだ。人の姿はあまり見かけない。
「昨日、空襲やら疎開やら私の時代には無かった言葉を教わったけれど、やっぱり戦う意志を持たない人達を無差別に攻撃するなんて敵兵はどうかしてると思うんだ」
私はあぜ道を進む中、サチヨにそう言った。サチヨは何も答えてくれない。言ってはいけないことを言ってしまったような気がした。そう思ったところでそれが解決するのか、と言いたげな表情だった。
目的地である神社がようやく見えてきた辺りで、そんな気まずい空気を鋭い音が打ち砕いた。赤子の泣き声に似たそれは人を不快にさせるようなものだった。ウーン、ウーンと唸る声にも近い。
まずい、サチヨはそう呟いた後に「走って早く神社に駆け込むわよ」と大きな声で言った。走るサチヨに、私は訳が分からないながらも咄嗟に続いた。
サチヨの手の中から紅い小袋が滑り落ちた。サチヨはまったくそれを気にする様子を見せなかったが、私はそれを拾った。絶対に帰るぞと思いながら。
それから数秒経って走れと言ったサチヨの言葉が理解できた。初めは鷹などといった大型の鳥類だろうと思っていたそれは、大きな鉄の塊であった。先程の赤子の泣き声に似た音とはまた別の轟音を出している。まだ遠くにあるそれは何かをたくさん投下しているのが見える。
あれが爆弾か。その推測は正しかった。あたりで次々と爆音が鳴り響いた。田園風景にポツポツと建つ家には、直撃し崩壊したものや燃え始めたものもある。そしてその鉄の塊は私たちの方に向かっていた。私たちは走り続ける。
神社の中に隠れてもあれを食らってしまえば、ひとたまりもないなと思いながらも直撃するよりかはマシだなと思った。神社の石段を駆け上っている。そのすぐ後ろではサチヨが息を切らしながらも必死に石段に登っているのが分かる。
あともう少しだ、そう思った瞬間。今まで一番大きな轟音が背後から鳴り響いたのだ。それはつまりすぐ近くに爆弾が落下したということだった。その鼓膜が破れそうな音とほぼ同時にとてつもない衝撃が背中全体に伝わった。思いっきり蹴られた鞠のように自分の体が飛ぶ。
もはや後ろを、サチヨの方を見る余裕なんてこれっぽっちもなかった。悲鳴を出していたとしても、私には届いていない。
私は神社の社殿の方、正確に言えばそのすぐ隣にある苔むした大石にそのままでは頭から突っ込んでしまう感じだった。だが鞠のように飛ぶ体を自分自身で操作することなど不可能であった。
頭に強い衝撃が走った。視界も意識も消えた。
「若殿、若殿、しっかりなされよ」
聞き慣れた声で目を覚ました。昇ったばっかりだった太陽の姿はなく、空には満面の星々と満月があった。
鈍い痛みのする頭をさすりながら、変な夢を見ていたものだなと思った。不注意で転けてしまうなど、恥ずかしくて仕方がない。
「おお、よかった。外で寝るなど言語両断です。お父上に見つかっておられたらいったいなんて言われていただろうか」
私の教育係だった爺は呆れた様子で言った。
「爺、心配させたな。ちょっと調子に乗りすぎて酒を飲みすぎたようだ。私はもう大丈夫、すぐに正しい寝床に戻るよ」
そう言うと、爺はぶつぶつ小言を吐きながらも去って行った。見つかったのが父ではなくて、爺でまだ良かったなと心の奥底から思う。
未来旅行をするなどという中々に面白い夢であったな。さて、私も戻るか、そう思い足と手に力を入れる。
立ち上がる為に手を地面に着こうとして手を開いた。すると、手のひらから紅い何かが落ちた。かなり年季の入った、細かい模様の紅い小袋であった。もちろん私はこんな物など持ってはいなかった。ああ、そうかと呟く。
あれは決して夢などではなく、現実で実際にこの身に起きたことだったのだ。あれからサチヨがどうなったのかは分からない。だが、あの爆風を私よりも近い位置で喰らい、無事であるなどという想像をするほど私は楽観的な人間ではない。
私は寝床に行き、目を閉じた。明日は母と京へ行く。しっかり寝なければな。
虎之助はじっと父の話を聞いていた。昔話は終わり、部屋は無音に包まれた。そして一息ついて父は言った。
「信じるも、死期が間近な人の世迷いごとと思うも好きにするといい。私は信じてもらう為にこんな事を話したわけではないからな」
「私はどうやっても彼女を救うことなんて恐らくできないだろう。何百年も未来のことに関して私が干渉できる事など無に等しいからな。だが、今この世の、この土地にいる人間を救うことはできる。逆に言えば、未来で暮らすどんなに偉大な指導者や英雄であっても、私たちの領民を救うことなどできない。私はあの夜、この結論に至ったのだ。そして私は今日この日まで、私のできる限りのことは尽くしてきたつもりだ。それがあんな未来、無抵抗の人々が虐殺ようなことを回避させることにもしかしたら繋がるかもしれないと期待しながら」
「私が一番お前に伝えたかったことは、自分のできることを積み重ねれば、到底実現不能だと思われていたことも、実現できるかもしれないということだ」
虎之助は何度も頷きながら「分かりました。父上」と言う。小さな虎之助の握り締める拳はとても固いものだった。
「ふっ、それを聞いて安心したぞ。最後にこれを頼む」
父は懐からゆっくりと紅い小袋を取り出した。古びているが上品さを感じさせる品だ。虎之助は目を見開き、驚いた表情をしているようだった。だが、その小袋を丁寧に手に持った。
紅い小袋を失った父の手はゆっくりと地面に落ち、そして動かなくなった。もう父は喋らない。だが、虎之助の目からはもう涙は出ていなかった。何かを見据えた、そんな瞳をしていた。
1625年秋、藩主であった虎之助の父は逝去。祖父の補佐の下、虎之助は元服し二代目の藩主に就任することになった。
火葬される直前の父の棺桶の前に、虎之助を含めた大勢の人が最後に虎之助の父の姿を見る為に集まった。そこに居るのは家臣達だけではなく、領民の姿もあった。彼らは口々に良い殿様だったと語る。
最後の別れの時はついにやって来た。開かれた棺桶は閉じられ、虎之助の父の姿は見えなくなった。そして大勢の人々に見守られる中、その棺桶は長い石製の煙突が特徴的な火葬場の中へ運ばれ、そこの重い扉も閉められた。
それから虎之助は祖父や家臣と城へと戻った。領民に慕われていた父を見て、虎之助は父を越えるという意志を持ったに違いない。その表情は七歳の少年のものではなかった。
父から託された紅い小袋はもう既にない。虎之助はそれが今頃燃えていることを知っている。
虎之助はあの紅い小袋に見覚えがあった。というのも、死ぬ直前に母がそれとそっくりな紅い小袋を虎之助の為に作ってくれたのだ。母は手先が器用ではなく、少々出来の悪い小袋であった。崩れ具合がなんとも父がサチヨという少女から貰った紅い小袋に酷似していたのだ。大きさも、模様も、まったく同じだった。
深夜、満月の夜に虎之助は静かに起き上がった。そして今は亡き母の形見を手に持ち、祖父の部屋に向かった。
祖父の部屋は先先代の当主の部屋だけあって、広々とした空間に掛け軸やらといった家宝が多数飾られている。虎之助には壺、というのが祖父の部屋にあることを知っていた。祖父を起こさないように忍び込み、青々と月光に照らされる壺の中に母の形見を落とした。
その母の形見である紅い小袋の内側には文字が書いてある。まだ、顔も知らぬ我が子孫、サチヨへ、と。
いつか見た贈り物 タカゲ @takage58
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