第6場 私に遺された、あなたの心

 手入れされ、整えられた芝生の中庭。少し離れた位置から、焼け落ちて解体された音楽堂の跡地を眺める。月光の下、更地になった庭の一角は、もともと建物など存在しなかったような雰囲気で。不思議な気持ちになる。焦げて色が変わった剥き出しの土だけが、覚えていると主張する。けれど、それもきっと すぐに変わるだろう。放っておけば飛んできた種子たねが芽吹き、草が生え、小さな花を咲かせるかもしれない。

 時間は確実に流れていく。

 目を閉じ、深い呼吸をし、それから目を開けた。

 手のひらの上で金色の輝きを放つ、母の形見を眺める。

 兄の葬儀が終わるとき、相馬夫妻が持ってきてくれた。

 それは、母が亡くなる前に、夫妻に預けたものだそうだ。いつか私の手に渡すよう、頼んでいた。私が大人になって、自分の人生を歩いていけるようになったら。

 それは長い鎖の付いた懐中時計だという。けれど、時計としては使えない。鍵が掛かっていて、開かないのだ。解錠する鍵そのものは預かっていないそうだ。だから、唐草模様の浮いた綺麗な丸い金属でしかない。

 それでも。

 何か、母の想いが宿っている気がして。

 出来るだけ持ち歩いている。

 そうしていると、この家で起きた悲しいこと、苦しいことを慰められて。

 ここに残っている筈の、記憶に薄い母を思い出したくて。

 離れがたく感じるまでになってしまった。

 夜の静けさが、冷たい冬の空気を浄めて、月と星の煌めきを強めている。今夜は光が強い。

 ──あの星が見えるなら

 不意に浮かんだ言葉。

 ──あの人も見ていると考えるの

 穏やかで、優しい声。

 ──そして信じるのよ

「いつか、また、逢える」

 草を踏む音がした。

「結架」

 振り返ると同時に、ふわりと大きく厚手のブランケットで身体を覆われる。

「ありがとう、集一」

「眠れないのかい?」

「目が覚めてしまっただけよ。何か夢を視た気がするのだけど思い出せなくて、外の空気を吸いたくなって」

「起こしてくれればいいのに」

 不満げな集一の瞳に浮かぶのは、私を案じる優しさ。

「珍しく眠りが深いようだったから、起こしたくなかったの。それに、なんとなく、独りで ここに立ちたくなって」

 黒い夜の林に目を向ける。

 集一の気配が下がろうとした気がして、その手を捕まえる。

「邪魔をしてしまったかな」

「いいえ。ちっとも」

 踵を上げて、愛おしい口唇くちびるに口づける。柔らかで甘い。私の大切な、魂の主人あるじたる男性ひと

 彼を抱きしめるのは容易く、安心しきって全てを委ねられる。この身の傷も膿も許され、心ごと守ろうとしてくれる。けれど、そして、だからこそ。今はまだ。その先を求められるのが怖い。失えないから。失うと考えただけで呼吸も儘ならないから。

 それを伝えようとしたことはないのに。

 彼は、ちゃんと知っていてくれていて。

 私を撫でる手のひらも、抱きしめる腕も、接吻キスをしてくれる口唇までも、穏やかで優しく、熱情よりも慈愛に満ちている。

 急がなくていい。

 焦ることなどない。

 これから、ずっと離れずに生きるのだから。

 いつか、きみが求めることがあったら。

 私の髪を撫でつづけながら、彼は言った。

 ──そのときこそ、僕も求めるよ。

 僕が得たいのは、きみの心なんだから。

「誰に逢いたいんだい?」

「え?」

「いつか、また、逢える。そう言っていたから。先刻さっき

「ああ……」

 捕まえていた手を、きゅっと握る。

「たぶん、母が言っていたの。星空を見ていて思い出した言葉よ。そうね。母は誰に逢いたかったのかしら?」

「瑠璃架さんか。ピアニストだったね」

「ええ、そう。でも、ピアノを弾いている姿さえ思い出せないわ」

「病弱だったと聞いているけど」

「どうなのかしら。本当に病気が重かったのなら、演奏活動は難しかったでしょうけど。確かに亡くなる数年前から演奏会はしていなかった筈だわ。でも」

 空を見上げる。

「その頃に、叔母さまと会った記憶がないのは変だと思って。両親が亡くなってから、初めて会ったの。母を大切に想っていた叔母さまが、どうしてそれまで母を見舞うこともなかったのか、疑問に思うわ。それとも、私が忘れているだけなのかしら?」

 鞍木なら知っていそうだが。

 訊くには覚悟が必要な気がして。

 踏み出せないでいる。

 集一の手が、愛情深く頬に触れた。

 その温かさに目を閉じる。

「思い出したくて、ここから離れがたいんだね」

 やっぱり、お見通しだ。

「ええ。両親のことを思い出したいの。ここが、お兄さまの名義だったなら、相続放棄するだけだったわ。でも、違った。どうするのかを決めかねているの」

 記憶がないままに手離すのは、あまりに薄情すぎて。

 大切に守りたいと思えるか、もうここに縛られたくないと願うのか、それは分からないけれど。

 家族のことを知りたいと思った。

 何故か、集一が悩ましげな表情をする。それとも、悲しげな?

「きみが選ぶ場所に僕も居るよ」

 何があろうと絶対に離れない。

 そう宣言する彼が。

 私には勿体ないほどに尊くて。

 彼の背中に天使の翼を探しそうになった。

 そして、思い浮かぶのは、ともに歌った学友。集一と よく似た姿の、不世出な声の持ち主。スカルパ教授が紹介してくれた、彼の愛弟子。

 ねえ、シュー?

 私の音楽の天使。

 あなたは、いま、何処にいるのかしら。

 私には、もう集一がいるから。あなたの幸せを祈ることしか出来ないけれど。

 あの歌声を世界に響かせてくれたなら。

 きっと駆けつけて、あなたに お礼を言いたい。

 ありがとう、音楽院の天使。

 あなたと分かち合った音楽が、まだ、この胸に響き残ってる。

 そうね。

 きっと、また、いつか逢える。

 私が、そうねがうとしたら。

 一番は、あなただわ。

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