第7場 過保護とは安心を望む者が陥る沼

 名古屋の芸術劇場での演奏会。それは、ザルツブルクとグラーツで開かれた演奏会と同じプログラムだ。アマデウス管弦楽団であるのも同じ。であるからこそ、本当は、結架を伴うのは抵抗がある。グラーツからトリノのカヴァルリ邸に向かう際、空港に迎えに来ようとしていた彼女をロレンツォに引き留めてもらったのも、との対面を阻止したかったからだ。

 結架と別行動をとる気はない。今はだ。

 しかし、不安は摘めても不快は極まるだろう。恐らくは滞在中ずっと。

 憂鬱を見せないよう気をつけてはいたが。

 結架には、変調が伝わっていた。

 俯きがちに、目を伏せる。

「ごめんなさい。私の所為で、楽器に触れられていない日が続いてしまって」

 確かに それは そうだが。

 しかし、折橋邸で暮らすようになってからは、毎日それなりの時間を修練に充てられている。結架の伴奏で稽古することも可能となり、それは集一にとって有意義なだけでなく歓びに満ちたものともなっているのだ。結架の心身を守ることだけで精一杯だった日々でなまっていた技量も、少しずつ確実に取り戻しつつある。

「違うんだ」

 狼狽したあまり、自身の唾液に噎せてしまう。

 咳き込んだ集一だったが、急いで呼吸を整えて、弁解を始めた。

「きみを あの男に認識させたくないだけなんだよ。視認できる範囲に近づかせたくない。ああ、この仕事は断るべきだった」

「あの男……?」

 集一の口から、そんな言葉が出てくるとは。

「そう。きみが あの男の存在を知るのも不愉快に思ってしまう」

 言いようは辛辣だが、瞳には諦念と親愛が宿っている。

 結架は首を傾げる思いで尋ねた。

「楽団の方?」

 集一が頷く。

「そう。総奏トゥッティのオーボエ奏者。器用で力量は独奏者なんだけど、本人は総奏のメンバーでいたがってて。演奏者としては最高の人物ではある。でも、厄介な水準レベルで好色というか遊び人というか、惹かれたら口説かずにいられないんだ。袖にされても、その恋人ごと構いたがる。執拗に」

 それは流石におののく。

 結架は平静を装いつつ、震え上がった。

 集一は目線を遠くに向け、

「きみを置いて名古屋になんて行けない。でも、あの男の近くに連れていくのかと思うと悩ましい。真谷さんに控えていてもらう許可は下りているけど、それはそれで安心しきれるわけでもないというか別の不安があって」

 弱々しく呟く。

 その瞳が弱りきっていて、結架は胸が震えてしまった。

「鞍木さんにも、ついてきてもらいましょうか?」

「いやはマルガリータくらいでないと制圧できない……もしかしたら彼女でも不可能かも……」

 一気に不安が増す。

「……でも、私も、あなたから離れたくないわ」

 不意に放たれた甘い言葉と潤んだ双眸の威力に撃たれて、集一は左手の拳を胸にあて、右手で額を覆った。本当に、この美貌と、この純粋無垢と、この果敢なげな可憐が。あまりに易々と人の心に熱愛を呼び起こすから。守るのは容易ではない。

 隣にやってきて座った彼女を抱きしめる。

 仄かな白薔薇アンナプルナの芳香。それが鼻腔に優しく広がる。

 彼女自身が薔薇の化身であるように思えてしまうほど、馥郁とした香り。

 細い腕に抱き返されて得られる、夢見心地な幸福。

 絶対に、もう誰にも指一本さえ触れさせない。

 記憶にある傷が集一に痛みを思い出させたが、それももう、今のそれではないのだ。忘れられなくとも、乗り越えていける。

 失いかけた日常の、生涯に亘る絶対的な幸せを、こうして守っていくのだと。

 決意を新たにした。

 溜め息を長々と吐き出し。

「仕方がないか。彼とは今後も縁が切れないだろうから、ちゃんと堂々と紹介するよ。実際に対面するまでに取扱の心得と対処法を伝授するから、対抗策を考えよう。取り敢えず、婚約指輪を填めたままで過ごしてほしい。それから、あっちでは絶対に単独行動しないでくれるね。明日には届く腕時計型の新しい緊急通報装置も、常に外さないように。あれは防水性が高いから、浴室にもプールにも持ち込めるよ。寧ろ外すときに解除操作を忘れたら警報音がして警備員が駆けつけるから、気をつけて。まあ、外さなければ良いだけなんだけど。あと、一度通報したら解除は出来ない。位置情報を追跡して安否確認の人員が対面で安全を見極めに来るから、絶対に大丈夫。あの男が困らせてきそうだったら、問答無用で通報していいよ。包囲させる」

 集一の真剣な語りかけに、結架は瞬きを繰り返す。

 どう反応していいのか分からずに。

「まず、要警戒対象者の名前や特徴から覚えて。名前はバスティアン・メッツ。がっしりした体型で、顔立ちは俳優みたいに整っているけど、笑顔が凄く胡散臭い。出来るだけ笑みを返さないように。伊達眼鏡を外したら本気で口説こうとしてるときの癖だから、すぐに距離をとって逃げるんだよ。それから──」

 とてもではないが遮るなんて出来ない、熱っぽく隙のない注意説明が、延々と続けられた。

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