第4場 遺された心を抱えて(2)

 意外な人物の名前に、結架が首を傾げる。

 まだ話していなかったと思い出しながら、集一は種明かしした。

「都美子さんの配偶者は、父の実弟おとうとなんだ。つまり、亜杜沙ちゃんは僕の従妹にあたる」

「そうだったの?」

「あのときに、そう紹介しなくて、ごめん。なんていうか、その、最初に都美子さんと会ったときにはマルガリータたちがいたし、都美子さんの僕への呼び方は全く親戚らしくないし、名乗っている名字が違うこともあって説明が複雑で。そのまま時機タイミングを逃してしまった。次に会うときまでにはとは思っていたんだけど」

「気にしないで。そうね。確かに、都美子さんと亜杜沙ちゃんの名字は、椿さんですものね」

 共有した時間は短くも濃密な記憶にある二人を思い出したのか、ふわりと笑みを浮かべた結架の言葉に、集一は思わず苦笑する。

 婚姻によって姓を変えるのは、まだ女性のほうが多い。であれば、兄弟で家族名が違う理由が勘ぐられる場合も多々あり。隠そうとは思わないが、明け透けに話すことでもなく。第一、親戚とはいえ、独立した他家のことである。集一が勝手に話せる事柄ではない。ただ、この会話の流れで、この面子であれば、支障はないだろう。

「都美子さんの母親は昔から うちで家政婦をしてくれていて、その頃と変わらず、今も基本的に僕のことは主家の坊っちゃま扱いなんだよ。自分は主家の次男と結婚してるのにね。確かに叔父は生まれたときから心臓病のせいで無理が出来ない身体だったから、難しい立場で育ってこられたけど。亜杜沙ちゃんが生まれた後に手術が成功して、今では叔父は経営陣になくてはならない存在なわけだから、後継者から外れてる僕をいつまでも持ち上げることないのに。慣れた呼び方から変えるのは違和感があるとか言って、そのままなんだ。無理強いするわけにもいかなくて」

 一気に説明を終えると、心につかえていた気がかりが漸く片づいたという心地でソファーへ深く身を沈めた。すっきりしたと呟いて目を閉じる。

 椿家は榊原家の近所にあり、学校帰りの都美子が気安く立ち寄ることも許されていたという。更には、来客の多い時期や催しの前後では使用人たちも泊まり込みとなったので、都美子は、誠一や誠晶とは、それこそ物心がついた頃からの付き合いだ。それでも、母親である志都子しづこの教育が厳しかった所為と、誠晶を婿として受け入れたことが理由なのか、都美子の意識は、どうしても義兄一家と親族であるという近しい感覚を持てないらしい。亜杜沙に対しては、集一自身をはじめ周囲が気を配ってきたので、彼女は従兄への親しみを示してくれるが。

「それで、距離感が不思議な感じだったのね。家族のように互いを よく知っているのに、まるで主従の礼を尽くしているふうに見えたわ」

「どっちも正解だね。今の時代に あれほど慇懃でなくてもいいと思うんだけど、内輪の席でも都美子さんは ぶれないから」

「ただ、それと君を婿に出すのとは別だろう。折橋の家は無理に残そうとしなくていいと思うよ。崇人おじさんは音楽のことで頭が一杯の人だった。家の存続なんて考えていなかったから」

 鞍木の言葉も表情も穏やかで、思いやりに満ちている。彼は、結架にも集一にも、自分たちの望むことを最優先すればいいと言いたかった。

 特に結架には、二度と枷があることを前提とした生活をさせたくない。進む道を選択するときに〝許し〟が得られるかどうかを考えるなんて、しなくてもいい。これからは。

 ──それを、堅人が普通のことと考えるように出来ていたら。

 未だに鞍木の心には、そうした後悔が渦を巻く。

 ずっと折橋兄妹の傍にいた自分に、もっと何か出来たのではないか。互いを尊重する家族としての関係を望んだ結架を傷つけずに、唯一無二と定めて焦がれる堅人の結架への情念を全て否定するのではなく。そうして望まれる愛情を受けとめられるだけ注げば、きっと、想い合うことは出来た筈なのだ。堅人を憎しみ恨む気持ちを結架が抱くなんて、なかったろう。

 だから、迷っている。

 堅人の遺書に何が書いてあるのか分からなくて。

 開封してしまえばいい。

 何度も、そう思った。

 しかし、「興甫へ」とあるものは封緘されていなかったのに。「結架へ」と書かれた封筒には、糊付けだけでなく、封蝋で印璽まで施されていた。その意味を考えると、どうしても、それを破れなかった。

 玲子を通して渡された封筒には入っていなかった遺書。それは、堅人が死んだ夜、音楽堂から本館に移されていた楽器のケースの上に置かれていた封筒の中にあった。自分宛の遺書は早々に読んだが、結架へのそれは、どうすべきか決めかねている。

 やっと、以前のような微笑みを浮かべる姿が見られるまでになった。

 その安定を、揺さぶるなど、したくない。

 鞍木は、鞄の中にある、もう一つの茶封筒の存在を明かさぬまま、微笑みながら会話する大切な二人を見つめて、胸の痛みに耐えた。

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