第4場 遺された心を抱えて(1)

 降り始めは撫でるように細かい霧雨だった。

 やがて雨脚が次第に強くなり、天のたすけとばかりに士気が上がった消防士たちが勢いよく放水したが。それでも、夜明けが近づくまで、なかなか鎮火しなかった。しかし、幸いにも本館に炎が燃え移ることはなく、音楽堂は全焼したものの、裏の林は一部が燃えただけで消し止められた。

 音楽堂に所蔵されていた楽器は全て堅人が予め本館に移していたため、被害は最小限だと判ったのは数日後。

 だが、どうやら音楽堂の内部全体、壁にまで燃焼促進剤が塗られて染み込ませてあったらしく、完全に消火するまで時間がかかったのは、それが理由のようだった。長時間の高熱での燃焼は、堅人の肉体を破壊しつくしたのだろう。発見された遺体は完全に焼け焦げて、強い力で叩けば砕けてしまいそうな骨のみとなってしまっていた。

 遺骨の傍らには金属が熔けていたという。彼が唯一、運命をともにした楽器である愛器フルートだろう。命が途切れる寸前まで奏でていた相棒。フルート奏者として最初から最後までをともにした。

 結架にとって脅威でしかなくなってしまった、兄。

 その存在が完全に地上から消えた。

 信じがたいほど呆気なく、永遠に。

 その実感は未だ薄い。

 結架は、事後処理を任せて欲しいと申し出た鞍木に甘えることにした。そして、一報を聞いて駆けつけてきた弦子の勧めと、心配そうな眼差しで見つめてくる集一の懇願に従い、矢張り まだ暫くは帝苑ホテルに身を置くことに決めた。

 まだ、生家の眺めが心的外傷トラウマを揺さぶり起こし、精神の乱れが大きすぎて身体の不調を引き起こしてしまう。一時間程度なら耐えられても、長時間は無理だった。

 その日、報告と相談のために二人のもとを訪れた鞍木は、封筒を二つ持っていた。一つの封筒には、折橋家の財産が全て記載された一覧と、それらの登記書類が入っていた。玲子を介して堅人から渡されていたもの。

「おれも知らなかったんだが……折橋の家の財産が……既に、全て結架くんの名義になっている」

「──えっ」

 結架も集一も二の句が継げずに、卓上に鞍木が並べた登記書類を眺めた。

 説明のとおり、どれも結架の名前しかない。

「土地も家屋も、銀行口座も、証券口座も、本当に何もかも。全部が全部、最初からというわけではないようだし、ごく最近になって変えたわけでもないらしいし、もともと堅人が無欲だったからとは思えないんだが、それでも、あいつ名義の財産が無いのは確からしい。まあ、この資産目録に漏れがなければの話だが」

 沈黙が場を支配した。

 どう反応してよいのか分からない。

「……つまりは、相続の手続きが不要ということですね」

 極めて現実的なことを無感情に集一が口にすると。鞍木は頷いた。

「ああ。唯一の例外が生命保険や医療保険だな。手続きをしなくてはいけない。被保険者が堅人のものは受取人が結架くんだから問題ないとして」

「私が被保険者の保険があるの?」

 結架本人も初耳のようだった。

「加入契約したのは、結架くんが八歳の頃だ。保険証券の加入契約者は、高比良たかひら 藍花あいかとなっている」

「叔母さまが」

「夫妻が亡くなった際に結架くんに相続は出来ているから、名義自体は問題ないよ。受取人の変更が必要なだけだ」

 誰が死亡受取人となっているのか、敢えて鞍木は言わなかった。集一も何も訊かない。結架は戸惑い、ただ証券にある契約者氏名の文字に指先をあてている。二条線が引かれた叔母の名に。

 鞍木は息を吸い、

「必要なものは、おれが揃えるよ。書類への記入や押印は必要だろうから、手続きに同席してもらうことになるけど。必要なら、集一くんにも立ち会ってもらえると有難い」

 重要な手続きであるからという意味を込めて発した言葉に、結架は頷いた。どうやら理解したらしい。

「そうね。集一、お願いしていいかしら?」

「それは勿論。きみが望むなら、そうしよう」

 安堵した結架が表情を和らげ、集一も微笑む。

「ただ、この間の入院手術の保険金請求もあるから、それは先に済ませようと思う。受取人の変更については、急ぎでなければだが、君たちの入籍後なら二度手間にならなくて楽だろうな。とはいえ、保険という制度の性質上、受取人が死亡したなら、すぐに変えておくのが本来なんだが」

「えっ?」

結架は首を傾げたが、集一は すぐに思い至った。

「ああ……改姓ですか」

「うん。結婚によって、どちらの姓にするのかは ともかくとして。死亡受取人の続柄が〝配偶者〟になるからね」

〝配偶者〟という言葉を発したときの鞍木の笑顔が明るい。久しぶりの屈託ない彼の表情に、集一も日常が戻りつつあるのを感じた。

 顔を赤らめた結架に見上げられて、集一は微笑わらう。

「僕が折橋を名乗るのもいいかもね」

「えっ、でも、そんな、集一は一粒種ひとりっこでしょう。だめよ、大切な跡取りなのに、そんな簡単に」

 慌てだした結架に、集一は、あっけらかんとして告げる。

「会社を継がないのに家名だけ継いでもね。あの父が簡単に退くわけないから、その間に、亜杜沙ちゃんの血筋に期待しよう」

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