第3場 燃え尽きぬ恋慕に焼かれ

 結架を庇う集一を壁と自分の身体で守りながらも視界を確保する真谷は、庭の熱源へ意識を向けつつ、同時に鞍木と玲子の様子を探る。二人とも、本気で動揺しているようだ。両耳を塞ぎ、屈んで身を縮め、恐怖に耐えている。

「音楽堂が……」

 木材を割りながら暴れる炎の音に、澄んだ柔らかな声が滑り込む。

 安全確認をしてから真谷が立ち上がると、遅れて立った結架が弾かれたように駆け出した。その手を掴んだままの集一も続く。真谷が追うと、我に返った鞍木と玲子も後続した。

 部屋を出て階段を駆け上がる。

 大きな窓硝子の並ぶ廊下の正面。

 広い庭。

 その、向こう。

 夜の闇にとけていた林を背景に、別棟の建物が。

 燃え上がっていた。

 赤々と夜空を染めて踊る紅蓮の輪舞曲ロンド

 二階の窓辺。開かれたテラスに。

 横笛を構える人影。

「……堅人!?」

 鞍木の叫び声と同時に、その人影が揺れる。そうして、まだ辛うじて火焔が侵していない室内に消えた。

 結架と集一が同時に呟く。

「ドヴィエンヌ……」

「え──?」

 ぞっとするほど透明な、情熱を帯びた旋律。

 燃え上がるオーケストラを伴った。

 火元に それほど近いわけではないのに、オレンジ色に染まる硝子窓に熱を感じる。まるで舞台の上に居るようだ。この距離であれば屋敷の本館が延焼する可能性は高くないが、風向きによっては危ないだろう。集一は真谷を見た。だが、彼は泰然と集一の眼を見返し、動こうとしない。その落ち着きぶりから、別動隊が既に消防に通報していることが察せられる。そして、静穏にしていても常に感覚を研ぎ澄ませている彼は、危険性があると察知すれば、すぐさま退避を促してくる。集一は結架の様子だけに注意を払うことにした。

「……そんな……堅人さん!!」

 茫然自失から脱け出し、身を翻そうとした玲子の腕を鞍木が掴む。彼女の勢いでは、中庭に駆け降りて、炎上する音楽堂に突入しかねない。だが、しかし。

「だめだ、生身では無理だ! すぐに煙にやられるぞ!」

「嫌よ! こんな……こんなのってない……!」

。これは堅人の意志だ。最初から、こうするつもりだったんだ。結架くんの前に現れるつもりもなかったんだろう。もう、誰にも止められない」

「そんなこと! 結架さん!」

 玲子と鞍木が視線を向けた先。

 結架は膝をつき、硝子に顔を当てて目を閉じていた。窓硝子の向こうに聞き耳を立てるように。その後ろから集一が彼女を両腕に抱えている。苦痛と歓喜と、憐憫とを混ぜた悲哀で震える天使と、彼女をただ守ろうとする騎士。

 言葉もない玲子が脱力して座り込む。

 結架の頬は涙で濡れていた。炎の明かりに照らされて艶めく。

 苦しげに、祈るかのように跪いた結架の背後を守る集一は、炎上する建物を見つめている。その瞳に浮かぶのは怒りではなかった。目に見えない何かを惜しむ静かな哀しみ。

 芸術家が精魂こめて造り上げた彫像のように美しい二人だった。

 ほんの数分間。

 そうしていた結架が、不意に顔を上げた。目を見開いている。その彼女に触れている集一の腕に、緊迫が伝わった。

「……聴こえてた? 集一」

 鞍木も玲子も意味が解らなかったが、集一は結架の問いかけに頷いた。固い表情のまま、

「天から与えられるように美しい音色だった。天国的な響きでありながら悪魔的な技巧」

評する言葉に鞍木は息を呑む。

 二人が声を揃えた。

「極めて魅力的で狂おしい演奏」

 それは、いつだったか、音楽評論家が堅人に献じた賛辞だ。フルート協奏曲第七番ホ短調。終楽章の絢爛豪華な超絶技巧。フランスのモーツァルトと讃えられたフランソワ・ドヴィエンヌの紡いだ、甘く、それでいて激しく流れる華麗な音形。魂を奪われる美しい旋律。情熱的であり、それでいて清雅。誇り高い光輝。その賛辞を、彼の父である崇人は斬って捨てたが。

 凄まじい破壊音が轟く。

 音楽堂の屋根が焼け落ちたのだ。

「ああ……」

 玲子が絶望の声を絞り出した。

 あの炎の中で生きていられる者など居やしない。

 堅人が無事でいるわけがなかった。

「──魂なき生活は人間に値する生活にあらず」

「鞍木さん?」

 渦巻いて昇る黒煙を、火の粉を纏わせながら崩れていく音楽堂を注視みつめる鞍木の震える声が、孤独な魂の痛みを語る。

「堅人は魂の探求をこれ以上は耐えられなかった。ソクラテスは正しい。人間の最大の幸福は、日ごとに徳について語りうること。だが、死は、人間が持つ すべての恵みの中でも最高のものだ。自らの罪深さを知れば知るほど手遅れであると思い知る。おれは堅人を追い詰めてしまった」

「鞍木さん……」

「おれが堅人に死ぬしかないと思わせてしまった。おれのせいだ」

「そんなふうに言わないで、

 膝をついた鞍木に、結架が両手をのばす。

 いつだって味方でいようと踏ん張ってくれていた大切な存在。幼い頃にだけ使っていた呼び名。それに不快を示し、咎める者は、もう、居ない。

 集一は結架を止めなかった。

「お兄さまは、最後まで、興兄こうにいさまを信頼していらしたわ。それだけは否定しないで」

「信頼か」

 鞍木が表情を崩す。

「私には悲しめない。今でも、こうなってしまっても、それでも許せないの。だけど、出来るなら、興兄さまは、お兄さまを許してあげて」

「結架くん」

 結架が鞍木から身を離し、視線を玲子に向けた。その瞳は、もう弱々しくはない。

「ごめんなさい、玲子さん。貴女の心に、私は、もっと早く気づくべきだった」

 玲子の涙は止まっていない。しかし、彼女は首を横に振った。言葉にならない声しか出ない。

「でも、私は、どうしても、お兄さまを許せない」

 玲子は口を開く。

 懸命に言葉を押し出そうとしたが、それが叶う前に。

 近づいてくる消防車の警報音サイレンが聞こえた。音楽堂へ放水するなら、裏門から敷地内に入らなければ、きっとホースが届かない。冷静にそう判断した結架が集一の手に支えられて立ち上がる。

 出来ることは、それしかない。

 歩きだそうとした途端。

 窓硝子に小さな水滴が弾けた。

 やがて、消火活動が始まり。

 降り始めた霧雨が、周囲一帯を柔らかく抱いていた。炎の勢いを鎮めようと慰めるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る