第2場 罪を罪と知り、認め、許す愛

 両手両足首を きつく締め付けていた薄手のタオルを、暫くの格闘の末に鞍木が解き。

 立ち上がった玲子は、乱れた黒髪を背に流した。切れ長の目を鞍木に向け、礼を告げる。その顔を見て。

「良かった、玲子さん! 無事で──」

「結架、駄目だ!」

 安堵のあまり駆け寄ろうとした結架を、集一が抱き留める。その声には切迫した緊張があり、表情には苦々しい怒りがあった。

「集一?」

 見上げた鳶色の瞳が警戒心で光り輝く。二人を射抜くように注視していた。激情を孕む両眼。結架が身を竦ませる。

 玲子を凝視する集一の様子を見て、鞍木が声を上げた。

「待った、集一くん、説明を」

「貴方も承知の上ですか」

 気の弱い人間であれば、死に至らしめられそうなほど鋭い眼光。研ぎ澄まされた美貌の迫力は筆舌に尽くしがたい。

 下手を打ったことを瞬時に悟り、鞍木は焦った。

「違う。聞いてくれ」

 慌てふためく鞍木に集一は聞く耳を持たない。

「貴女とはトリノで会っていますね、“玲子さん”」

「え?」

 結架が瞠目する。

「……」

 唇を噛んだ玲子に、凍てついた声で続ける。

酒場ラ・コロラトゥーラで、結架にショパンのワルツを弾くよう求めたでしょう。こんなところで再会するとは思いもしませんでしたよ。貴女からすれば計画どおりなのかもしれませんが」

「う、そ……」

 衝撃を受けて愕然とする結架を抱きしめつつ、ゆっくり体勢を変える。いつでも身を翻せるように。

「玲子さん? ほんとに……?」

 目を見開いた結架が震えている。

「そうね。そのとおりよ」

 結架の咽喉が鳴った。

 みどりをおびた茶色の瞳が、今にも零れ落ちそうだ。

 限られた関係者しか知らなかった筈の、アレティーノの酒場でのピアノ演奏。そこで結架を動揺させた選曲のリクエスト。そして、翌日の騒ぎ。鞍木にさえ、事前に伝えていなかったというのに、まるで見張られていたかのような流れで起きた騒動。

 集一は目を細め、二人を睥睨しながら記憶を辿る。

 ──中心に居たのは折橋 堅人だった?

「でも、興甫くんが それを知ったのは、日本に帰ってきてからよ。あたしが打ち明けるまで、堅人さんは興甫くんに何も知らせていなかったから。だから、結架さん。興甫くんは貴女を裏切ってないわ」

 しかし、結架には応える余裕はない。色を失くした顔で、その瞳は玲子を見つめながらも、違う恐怖を見ている。

「ごめんなさい、結架さん。堅人さんに言われて、あたしはイタリアで貴女を監視してたの。貴女と興甫くんを。あの晩、演奏曲目依頼リキエスタしたのは、警告のつもりだった。どういう意図か、貴女には解るでしょう?」

「そんな!!」

 叫んだ結架に、玲子は悲しげな視線を送る。

「本当に、ごめんなさい。だけど、後悔してるの。今は堅人さんが間違っていると思うわ。今の あたしは、貴女と榊原さんの幸せを願ってる。それと」

「もういい、玲子ちゃん。気づかなかった、おれも同罪だ。これ以上は止めろ」

 鞍木の制止に従う玲子が俯く。

 結架は足元が崩れるような心地がした。

 結架が集一に惹かれていくのも、彼と心を交わしたのも、離れがたいと憂いていたのも。全部。その都度、兄に知られていた?

「それなら……それなら、お兄さまは……集一のこと」

「最初から知っていたわ。あたしが報せたから」

 酷い眩暈と嘔気に襲われる。

 ぐらぐらと揺れる足元が恐ろしい。

 集一の腕と胸に支えられていなければ、立っていられなかっただろう。

 視界は翳り、呼吸が苦しい。

 でも、ここで、しっかりしなければ。

 自分を叱咤するほどに疑問が沸き上がる。

「そんな、それなら、お兄さまは私を集一から引き離すために?」

 玲子には結架の言いたいことが理解できた。

「そうかもしれない。貴女を自分のもとに留めたくて、離したくなくて必死だったのね。貴女が榊原さんに どれほど強く心を寄せているのか、知っていたから。それでも、堅人さんが貴女を誰より愛しているのも本当よ。誰でもいいような欲望の餌食にしたわけじゃない。全身全霊で貴女を愛しているから抱いたの」

 耳を塞いだ結架が悲鳴を上げる。

「やめて……っ!!」

 その反応は、ごく当然のものだ。

 だが、玲子は胸の痛みで苦しかった。

 愛してはいけないと、どれだけ理性で抑えても。

 どうにもならないほど求めてしまう。

 必死に耐えていた長い時間を。

 彼自身が台無しにしたのだとしても。

 忌まれ、疎んじられ、厭われて。

 愛していること自体まで穢らわしいと払われてしまうのは不憫だった。

「結架さん。貴女……堅人さんに死んで欲しい……?」

「玲子ちゃん、止せ」

 鞍木が玲子の肩を押さえたが、彼女はかぶりを振る。

「そう思っても無理はないわ。榊原さんも、堅人さんを悶死させたいほど憎んでも当然よ。それだけのことをしてしまったんだわ。でもね」

 玲子の両頬に、涙が流れる。幾筋も、幾筋も。

「私も愛してるの、堅人さんを」

 結架が顔を上げ、玲子を見つめた。

 堪えていた悲しみが破裂した。

「ごめんなさい……! ごめんなさい、愛してるの! 堅人さんを……愛してる!!」

「玲子ちゃん」

「お願い。お願いします、結架さん! あの人を死なせないで。引き留めて。勝手な願いだって解ってる。でも、あたしじゃ止められない。あたしじゃ駄目なの。貴女でないと……!」

 泣きじゃくる玲子に結架が近づこうと、足を踏み出そうとした瞬間。

 爆発音がして、閃光が窓の外を走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る