終幕

第1場 生家である音楽の檻

 隣で全身に緊張の糸を張り巡らせている集一の手の温もりを感じて、結架は心が鎮まっているのを自覚している。不思議なほどに落ち着いていた。

 玲子のことは心配だし、兄への不安もある。

 それなのに。

 焦りも恐れも感じない。

 兄に きちんと別れを告げるのだと、ただそれだけを決意していた。

 これが覚悟というものなのかもしれない。

 兄が どのような反応を示しても。

 集一だけを愛しているのだと。

 集一だけに愛されたいのだと。

 言葉にして伝えようと決めた。

 もし理解してくれないとしても、伝えなくてはならない。これから生きていくために。

 逃げるのではなく、対峙する。

 ただ一人と求めてやまない愛しい人が、この苦しみを共に負うと言ってくれて。

 以前と変わらず、傍にいることが幸せだと断言してくれて。

 どうして いつまでも絶望だけに浸っていられるだろう。

 そうして悲嘆に暮れ続けることで、許しを乞わさせるまでに苦しめてしまうと知ったのに。

 ──私の幸福を願ってくれる人を愛しているから。

 少しでも前を向きたい。

 今はだ……。

「結架」

 門前に停車した途端、鞍木がそれを開けるために降車して、門柱の金属扉を開けて中の機械を操作し、掛金を外した。重い金属音が響く中、真谷が徐行で敷地内に入っていく。

「僕と真谷から離れないでくれ、絶対に」

 玄関前に停まったと同時に発された声は震えてはいない。しかし、怖れに染まっていて、痛ましいほどだ。

 結架は身を乗り出して、

「……大丈夫。私は、大丈夫よ」

 強張っている頬に口唇を寄せた。

 尊厳を手折られ、奪われ、握り潰された場所。

 けれど。

 厳しい世間から守られ続けていた場所でもある。

 甘やかされて過ごしてきたことも事実だった。

 車から降り、見慣れている屋敷を見上げる。自分の家の筈なのに、帰ってきたという感覚がない。懐かしさも。

 隣に立って同じように母屋を見上げる集一の表情が険しいが、結架の視線に気づくと、口許は和らいだ。握っている手に僅かな力が足される。

 門扉を開けたままにして、鞍木が近づいてきた。

 門柱の電灯も、車寄せの外灯も点いているので、その表情も見えるほどに明るい。

 迚も静かだった。

 人の気配が全くない。

「鞍木さん、ここからは?」

 屋内に入ることは避けたい集一の質問に、彼は首を横に振る。

「とくに指示があった訳じゃないんだ。ただ、結架くんと玲子ちゃんを迎えに来いとだけ言われた」

「……お兄さまの お部屋かしら」

 二人とも顔を顰める。

 あれから時間は経っているが。

 鞍木の記憶には気分の悪くなる光景が焼きついていて離れない。思い出せば、嗅覚にまで蘇ってくるようだ。あの、忌まわしい匂いが。

「集一さま」

 エンジンは切ったものの鍵は抜かず、ドアも開けたままにした真谷が、いつの間にか足音もなく傍に来ていて、結架と鞍木は驚く。

 吃驚したあまりに声も出ない結架だったが、握られた手を指で撫でられ、深く呼吸する。

 鞍木のほうは、真谷が本職の警護人であると思い出し、寧ろ安心感が深まる気がした。

「電灯が消えている場所のほうが多いです。明かりの殆どは廊下ではありますが」

「誘導か」

「恐らくは。ですが、危険性は然程 感じられません」

「理由は?」

「明かりの点いている部屋は一階の一部屋だけです。そこに目標の人物が居るなら、本来、上層階の電灯を点ける必要はない筈です。しかし、何らかの理由で来させたい場所ということでしょう」

「上層階の廊下に?」

「但し、最上階ではありません。それから、点灯しているのは中庭に面した廊下だけです」

 沈黙して見守る結架と鞍木の前で、集一は、やや逡巡した。彼の想定している幾つもの状況には、救い出すべき女性が堅人と目的を同じくしているというものさえある。結架の前で、それは言えなかったが。

 二人が同じ意図をもって行動を揃えている場合。

 鞍木をも疑わざるを得ないだろう。

 真谷だけで制圧できるとは限らない。

 しかし。

 ここまで来て、踵を返すわけにもいかない。

 決着をつける。

 引導を引く。

 どちらでも同じことだ。

 ただ、後顧の憂いを完全に絶つ。

「……鞍木さん。先導してください。取り敢えず一階の明かりが点いている部屋に行きましょう」

「分かった」

 少なくとも、集一に異を唱えず従う態度には、不審を抱かせるようなところはない。

 すぐに先頭を歩き出したが、玄関扉の前で彼は歩を止めた。

「どうしましたか」

「開いている」

 施錠されていないどころか、扉は指三本ほどの隙間を残して開かれたままだった。

 鞍木はドアノブではなく、その開いている隙間に指を入れて扉を開けた。中の照明の光のほうが強い。一瞬、眩しさに目を閉じてしまう。

 後方から低い声が響いた。

「靴は脱がずに行ってください」

 真谷だった。

「え、でも」

「構わないわ、鞍木さん。私たちも、そうしましょう」

 躊躇ったものの、住人である結架からも言われれば、逆らう理由はない。鞍木も、続いて進む結架と集一も、真谷も、土足のまま上がった。

 廊下に敷かれた絨毯に泥が付くが、そのお陰で足音は響かない。四人は無言で進んだ。

 暗い居間を通り過ぎる。

「この先は?」

 集一の囁き声に、結架も押し殺した声で答えた。

「今は空き部屋よ。お祖母さまの衣装部屋だったと聞いているけれど、亡くなられて暫くしてから、全部お父さまが処分なさったらしくて」

 明かりが点いているのは、その空き部屋だった。

 その部屋の扉も、玄関扉と同じように、少し開いている。

 振り返った鞍木と視線を合わせた集一が頷くと、彼も頷き返した。そして、そっと扉を引く。

「え……?」

 そこには、楽器がところ狭しと並んでいた。

 ピアノが二台、その下に敷かれたフェルトの上にリコーダーやフルート、ピッコロフルートといった様々な大きさの笛。床に並べられた幾つもの黒いケースは、大きさと形状からコントラバスやチェロだろう。ヴァイオリンやヴィオラもある。名前がすぐには出てこない撥弦楽器、管楽器、それから打楽器まで。

 雑多に並べられているようでいて、そうではなく。種類ごとに分けられ、碁盤のように考えられて置かれているので、通路も確保されている。数歩進んだ鞍木が身を屈めた。楽器ケースの上にあった封筒を取り上げる。

「どうして ここに……」

 息を呑んでいた結架が呟いた。

 そのとき。

「結架さん? 結架さんが居るの!?」

 女性の声がして、思わず鞍木が部屋を横切って行った。

「玲子ちゃん!」

 窓の下。楽器から出来るだけ離して。

 両手足を縛られた玲子が、床に横たわっていた。

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