第10場 別離へと立ち上がる心のままに(2)

 不安を抱きつつ毅然とした姿勢で立つ結架が現れた。

「結架くん……」

 結架は鞍木に一瞥だけを寄越すと、集一の頬に触れた。

「何を そんなに心配してくれているの?」

 集一が結架を抱きすくめるのを、鞍木は口を塞いで見守った。ここで焦っても、きっと事態は良くならない。

 集一の背を撫でながら、

「大丈夫よ。もう、あなたを悲しませるようなことはしないわ」

胸が突かれるほどに優しい響きで宥める。

 その姿を見て、鞍木は初めて、集一も深く傷ついているのだという当たり前の事実に思い至った。

「約束します。あなたから離れません。自分のことも大事にするわ。あなたが安心できるように、なんでもします」

「なんでもするなんて簡単に言っては駄目だよ、結架」

 くぐもった声が苦しげに答える。

「それなら、きみを閉じ込めて、僕以外の人間には会わせないようにしたくなる」

 結架の微笑が匂い立つような艶やかさを得た。

「ええ、いいわ。どうぞ、そうして」

 集一が身を起こして結架と目を合わせる。表情を消しているのに強く光る双眸が、彼女を真っ直ぐに見据えた。

。そんなことはしない」

 それを聞いても揺らぐことなく、甘えるように、結架が彼の喉元に こめかみを擦り寄せた。

「知っているわ。もし本当に私を閉じ込めても、あなたは、きっと数日もすれば私を外に連れ出して、皆に会いに行こうと言ってくれるの。あなたと閉じ籠りたくなるのは私のほうよ」

 本心か、それとも集一を落ち着かせるための方便か。

 鞍木には、解らなかった。

 もう今では、結架の考えを推し量ることが難しい。

「だから、そんなに気を張らないで。あなたも鞍木さんも私を守ってくれているのだもの。私は今、あなたと居られるのが幸せよ」

 語調も声量も以前より弱々しい。けれども、あれほどの目に遭って、ここまで自分を保てる強さを取り戻しているのは。本当に喜ばしいことだった。それを揺さぶることになる。そうと知っていて、それでも。

「すまない、結架くん。集一くん。本当なら、このまま君たちを、そっとしておきたい」

 集一が全身を強張らせるのに気づいて、そこで一旦、言葉を切る。

 だが、彼は結架を、その後の鞍木の言葉を遮らなかった。

「玲子さんが、どうしたの?」

「堅人が彼女を道連れにして死ぬつもりだ」

 集一の腕のなかで結架が絶句した。

「結架くんとともに迎えにくるなら解放すると堅人は言っている。でなければ……」

 言葉を濁らせたが、その先は、たった今、口にしたばかりのものに繋がる。心中すると。

 青褪めた結架が身を傾がせる。しかし、支える集一の身体は、揺るがない。

「僕は結架を伴うのは反対です。彼が道連れに望んでいるとしたら結架の可能性のほうが高い。みすみす危険に晒すなど、出来ません、絶対に」

 確かに正論だ。

「でも、私が説得すれば、お兄さま自身も死なないでくれるかもしれないわ」

 それも有り得る。

「駄目だ、結架。危なすぎる。命懸けの賭けみたいな行動はさせられない」

 彼は既に何人も殺していると告白した。それが事実だろうとなかろうと、可能性があるというだけでも集一には看過できない。失うくらいなら殺してでも手放さないと決意していたとしても、不思議はないのだ。

 堅人が避けていたのは家族を殺したことを結架に知られることだ。だからといって、結架を集一に渡さないために殺すことを躊躇うとは限らない。

 本当に、言葉どおり、玲子を迎えに来させる為だけに結架を伴えと言っているとは思えないのだ。何か企みがある。望んでいることがある。それが、結架を害することであるとしたら。

「……私も怖いわ」

 静かに結架が言った。

「だけど、私が あなたの背に隠れていた所為で玲子さんが殺されてしまったら。お兄さまが死んでしまったら。私は、私を今度こそ生かしておけない」

「結架!」

 凄絶な険しさで厳めしかった集一の表情が、それを聞いて、瞬時に死にかけの幼児のように弱りきる。結架は、その顔を、正面から見上げた。苦悩に歪む美しい顔を。

「酷いことをされたわ。許せないし、きっとこれは憎しみだと思う。出来るなら会うことも話すこともなく、このまま二度と関わらないでいられたらと望んでいる。だけど、死んで欲しくない」

 握った手が震えている。

「私は幸せになる努力をするわ。苦しいのも、苦しめるのも、終わりにしたいの。だから、お兄さまにも、そうして欲しい。その為に お別れをするのよ。別々に幸せになりましょうって伝えなくちゃ」

 言葉を切った結架は、暫く黙っている集一と目を合わせたままでいた。逸らさないでいることで意思を伝えた。彼には、それを拒めない。

 やがて目を伏せて溜め息を吐く集一の頬に手を当てる。その手を、彼の手が覆った。長い睫毛が作る陰。それが消える。

「絶対に、僕の手を離さないと誓えるかい」

 譬え離さなければ集一が助からない状況になったとしても。

 結架には解った。

 ──なら、僕も連れていけ。

 あの苛烈な瞳は、結架が自分だけ散ることを許さない。自ら死に飛び込むなら、自分も殺すのだと迫る。

 結架は不意に知った。

 愛するが故に出来る裏切りもあると。

 罪悪感はない。

 守れれば それでいい。

「はい」

 集一は直感で知った。

 その応諾が嘘だと。

 けれど、怒りはない。自分でも、そうするからだ。ならば、嘘にしなければいい。離されたとしても、その手を、もう一度、掴めばいいだけだ。そう、何度でも。

 覚悟を決めると、もう、その顔に弱さは残らない。

 集一は鞍木に目を向けた。

 悲痛な表情。心底では怯えている。だが、それでも、奮い立っている両眼。

「鞍木さん。運転は真谷にさせます。車の鍵を渡してください」

「あ、ああ! 解った。宜しくお願いする」

 開かれた大きな掌に、鞍木は鍵を預ける。

 集一が断固として言った。

「結架。着替えを。その格好では風邪を引く」

 強張っている彼に結架は逆らわない。

 頷いて、

「そうね。すぐにそうするわ。あなたもよ」

「わかった」

 懸念も不安も、彼を追いつめないために微笑むことの邪魔にはならない。結架は集一の手を引いた。

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