第10場 別離へと立ち上がる心のままに(1)
悩む時間など無いのだと、それだけは
鞍木は、結架と集一のもとに向かった。
先に集一に電話をしておくべきだと頭の隅では警鐘が鳴っていたが。それをすれば、結架さえ無事に守れれば他の人間は犠牲となっても致し方ないという判断を彼が下すような気がした。けれど。その結架が、その決断で、いずれ更なる傷を負うに違いないことは。きっと避けられないと思った。だから、どんなに恨みを買っても。自分だけは。
決意のままに早足で進む。乗り込んだエレベーターの上昇する速度は平素と変わりないのに、もどかしくて堪らない。急き立ち逸る心を奥歯に噛み締め、扉が開く前に一歩を踏み出す。
だが、エレベーターを降りた瞬間、鞍木は見知らぬ男性に阻まれた。
「こちらは お通しできません」
紳士服の上からでも判る鍛えぬかれた屈強な腕には、心身ともに疲れはてていることを差し引いても、決して敵わないだろう。
集一が、あるいは榊原家が雇った警護人であると理解して取次を求めたが。表情筋を微動だにさせず、男性は無慈悲にも告げた。
「……では、別室で お待ちいただきますので、エレベーターへ」
鞍木は特段、勘に優れているわけではない。
しかし、このときは察知した。
このまま拘束され、集一や結架には会えぬまま、こうして恐慌状態で来訪した理由を探られるだけだと。
「頼む! 直ぐに会わないといけないんだ! 貴方も同席してもらってもいい、どうか!」
必死に両足を踏ん張り、叫ぶ。
堅人に、玲子を手に掛けさせるわけにはいかない。そして、彼自身をも。
「真谷」
冷ややかでいながらも激情を秘めた声。
「はい」
具体的な指示の言葉は何もなかったが、鞍木の両肩を固定していた手が離れた。そうして壁際に下がった男性が姿勢を固めるのを、呆然と見やる。
名を呼んだだけで命を伝えた集一は、これまで鞍木には向けたことのない種類の視線を放っている。
「どうしましたか、鞍木さん」
その声も、目つきも、警戒心を
答えによっては結架から遠ざけられる。瞬時に悟ったが、それでも。
呼吸を整え、出来るだけ穏やかに発声する。
「集一くん、力を貸して欲しい。結架くんにもだ」
集一は無言で鞍木を見返した。
普段は
「一緒に堅人を止めてくれ」
「止める?」
眉間に深い皺を寄せた集一の眼光が鋭さを増す。
それを真正面から受けた鞍木は、拳を握った。自分でも、集一に対して厚顔無恥な要求をしていると、そう感じてはいる。
「いや──そんなことを、きみたちに頼むのは──恥知らずだな。だが、他に方法がない。巻き添えになる人間だけでも助けてくれないか」
瞬間、集一は、堅人に酷い言葉を投げられて悲鳴を上げた結架を思い出す。
──嫌っ! いやぁああ離してぇこんなの厭ぁッもう消して! だれか私を消して!! おねがいっ……!!
あのとき。
ほんの僅かでも集一が怯んでいたら。
彼女は窓外に身を踊らせたに違いなかった。
望みどおり、自分を消すために。
そして、兄に陵辱されたと知って打ちのめされ、絶望して、そんな自分に刃を突き立てたときから ずっと、集一の記憶からも消したがっていた。折橋 結架という存在そのものを。
それなのに、直後、堅人への殺意を言葉にした集一を、自分から離れないでと願うことで罪に堕ちないよう守ろうとした。
復讐すら望まず、自分だけを排除しようとした天使。その重い決断をも阻んで引き留めた集一に、真心と深い愛を示してくれて。だからこそ悲嘆に囚われて。
虚ろな
──ぜんぶ わるい ゆめなら よかったのに。
それほどの苦しみを与えておいて。
「……何故、僕らが助けになると?」
世界を凍らせそうなほどの声に、鞍木は硬直する。
「彼が要求でもしているのですか、結架を連れてこいと? それとも、会わせろとでも?」
抑制していることを隠していない集一の
「結架に近づくことは断じて許さないと、彼には伝えてあります。こちらからも同じです。もう絶対に関わらせない。二度と相見えることなく苦しみながら生きていくべきだとも伝えました」
「……だが、それでは、きっと」
「誰が巻き添えになろうと、どうなろうと、僕は結架さえ守れれば高望みはしません」
淡々と告げる酷薄な集一を鞍木は驚きの目で見たが、当人からすれば、こうした思考は生来のものであり、取り繕う気もない。全ての人を大切に尊び、救おうなどと考えるのは、不遜なことだとすら思っている。手をのばすのも、命を削るのも、愛する存在の為だけだ。
「それでは、結架くんの心までは守れない」
息も絶え絶えに、辛うじて聴こえる声で鞍木が訴えると。
集一は黙した。
鳶色の瞳に不快が閃く。
鞍木が、堅人の過去の殺人を知っているのかどうか。判断しきれない。知っているからこそ、こうして怯えているのか。知らないからこそ、阻止しようとしているのか。それとも、あれも脅しだけでしかない偽りか。
目を細めて見つめていると。
「集一さま」
真谷の声に、鞍木の懇願が重なった。
「頼む。せめて、玲子ちゃんだけは」
そこに更に重なる声。
「鞍木さん? 玲子さんが、どうしたの?」
内心で集一は舌打ちした。結架の気配を感知し損なうなど、痛恨の極みだ。
「結架」
いつの間にか少し開いた扉の向こうから、結架が集一の腕に手をのばす。彼が立っているのが扉の前なので、それ以上、開けられないのだ。
「集一、お願い。ここを開けて。鞍木さんが来ているのでしょう?」
柔らかく果敢なげでありながらも、断られることを許さないとさえ感じさせる声だった。
痛みを堪える表情をして、黙ったまま、集一が扉を開ける。
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