第9場 崩れゆく足許の先に見えるは袋道

 灰色の雲に傾いた陽の光が当たっている、暮れていく空を見上げて。

 日増しに冷たくなる風を正面から受けて。

 堅人に会って話をするべきか、それとも、まだ暫くは距離を置くべきかを考える。

 どちらを選んでも、誰かが心に深傷ふかでを負うことになる。自身も含めて。鞍木には、そう思えてならない。

 その考えを言い訳にして、自分が決定的に傷つくのを避けているだけなのかもしれない。結局は、ただの保身。そして臆病。逃げたがる卑劣さを知りながら それを振り払えない、どうしようもない愚かしさ。

 けれど、きっと詰ってしまう。

 責めてしまう。

 ただ、この怒りの、そのままに。

 彼の心を八つ裂きにしてでも、罪を罪と糾弾するだろう。満足など、その先にありはしないのに。そうと解っていながら求めてしまう。この上なく冷厳な懲罰を。だというのに、鞍木には陰鬱しか見えない。彼の反省も更生も、それが実現したとして、誰も救わないだろう。救われるとしたら彼自身だけ。そんなものは許せない。許せるわけがない。

 堅人を責めれば責めるほど、この心も切り裂かれてしまう。振るった刃が彼に傷を負わせれば負わせるだけ、こちらも同じほどに弱り、消耗する。鏡に映った我が身を攻撃したかのように。

 それでも。

 振り上げる手を押し止められない。

 暮れなずむ季節ではないのに、時間を長く感じた。

 ズボンのポケットの中で、消音設定したままの携帯電話が震える。取り出して画面を見た。

 昨日、自分に会おうと折橋邸を出て、会社に現れたというが。鞍木が結架と集一とともに帝苑ホテルに居たため、入れ違ってしまっていた。両親にすら出先を伝えていなかったのだ。会えようはずもない。ただ、何やら封筒は預けられていたので受け取ったが。『興甫くんへ。堅人さんから預かりました──玲子』と書かれた紙片が、クリップで留めてある。開封する気になれず、そのままだ。取り敢えずダッシュボードの中に仕舞った。

 それにしても、堅人が結架のいる病院に訪れたことを告げ、決して彼から目を離すなと言いつけたというのに。矢張り、彼女だけでは心許ない。集一にも手を打つと約束したのだ。まだ、それもどうするか決めかねている。だが、結架が退院した以上、どれほど傷つくことになろうと、自分も包囲に加わるべきかもしれない。ため息をき、通話ボタンを押す。

「どうした、玲子ちゃん」

「結架さんに会わせて。すぐ連れてきて」

 切迫した焦りを隠さず、前置きもなく、端的に彼女は言った。その声色は、暗く、憂いに満ちている。

「急がないと間に合わなくなるわ!」

「どういうことだ?」

「堅人さんが……」

 無意識に鞍木の顔は強張った。

「あいつが どうなろうと、結架くんに報せる必要はない。どうしてもというなら、おれが」

「私たちじゃダメなの!!」

 金属質な悲鳴が鼓膜を突き刺す。顔が険しくなるのが自分でも分かった。

「もうこれ以上、ゆい──」

 厳しい語調の言葉が相手に届く前に。

 電話の向こうで不穏な音が響いた。

 くぐもった悲鳴。

 打撃音。

 制止する言葉。

 交錯する足音。

 呻き声。

 正体の知れない雑音。

「おい、玲子ちゃん!?」

 返事はない。

 全身が緊張で固まる。

 身体中に巡る血液が凍りつき。

 思考回路が断線してしまった。

 状況を把握しきれない。

「興甫」

 堅人の その声に、戦慄が走った。

「堅人……?」

 名を呼ぶだけで精一杯だった。

 聞いたこともない、凍結しきった響きをした彼の声が、この上なく禍々しい。

「いい加減、目障りだ。一度だけ連れ出すチャンスをやろう。今日中に迎えに来るなら無事に解放する。だが、結架と一緒に来い。でなければ、おまえたちは、こいつを見捨てたと見做す」

 ひゅっと音が聞こえるような気がするほど急速に、周囲が冷えた。指先から感覚が消えていく。

 震えそうな声を絞った。

「馬鹿なことは止めろ、堅人」

 渾身の言葉を、彼は聞き流す。

「魂なき生活は人間に値する生活にあらず。──もう俺は解放されたい」

 瞬間、彼が何をするつもりなのか、鞍木は理解した。

 反射的に叫ぶ。

「そんなことをすれば結架くんの苦しみは増す! 堅人! おれに君をいずれ許すための時間も与えないっていうのか⁉︎」

 空気の震えが失笑であると気づくのに時間を要した。絶望に身を裂かれそうだ。まだ結架に、玲子がトリノで騒ぎの原因となる行為をしたことを打ち明けてすらいない。彼女ならば、玲子の謝罪を受け入れて、許すだろう。だが。

 荒れる思考が進む先を考えようとするいとまも許さず、

「人間に与えられた恵みのうちでも最上のものだ。俺が欲する唯一を諦めよというなら、せめてもの安息まで奪おうとするな」

淡々と命ずる彼に感情が逆撫でられた。

「そんなのは身勝手だ!」

「俺は、『俺の結架』のためにしか行動できない。いつだって例外なく」

 その否定が孕む欺瞞を暴いて正す力を、鞍木の使える言葉は持っていない。一瞬でも迷ってはならないのに、浮かぶのは、弱々しい祈りだけだった。無力な存在でしかない自分に嘆きよりも怒りを感じる。

 堅人は更に容赦なく告げた。

「タイムリミットは午前零時だ。それまでに結架を連れて来れなければ、こいつはこのまま俺の道連れとなるだろう。案外、本人は喜ばしく思うかもしれないな。俺の傍に居たいのだと訴えたのが、真実嘘偽りのない本心であるならば、だが」

「堅人……!」

「俺の手から何かを奪えるのは結架だけだ」

 その言葉を最後に、もう、電話は繋がらなかった。

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