第8場 守護するものを見守る者
一晩中、いろいろなことを考えながら思考を巡らせたが。
誰が情報源であるのか推定は出来なかった。
結架と集一のために助力を惜しまず動いている弦子は勿論、彼女から動向を聞いている限りでは誠一も、当然ながら榊原家の関係者にも、疑う理由はない。第一、彼らには堅人との面識さえないだろう。堅人から接点を持つことも難しい筈だ。仮に知己を得たとして、
以前なら誠一を信じるなど あり得なかった。だが、このところ弦子から聞く情報の中に、彼を警戒すべきと判ずるものはない。夫にも息子にも公正であろうとする彼女が嘘をついて隠すなど決してしないと信じられる。そして、父が妻を深く愛していることだけは、集一も昔から認めているのだ。彼が、その妻を欺くことがないとは言わないが、心を切り刻んで踏み躙ると分かっていながら そう行動することは、まず無いだろう。彼女の絶望を自身の絶望と知っている彼が。
結局、どのようにして結架の入院先を堅人が突き止めたのか分からないまま翌日の退院を迎えて。集一は、宿泊先の帝苑ホテルの警備を更に厳重にしてもらえるよう念を押すことにした。
結架の表情が陰ったままなのは、致し方ないだろう。昨夜の堅人から突きつけられた言葉は、集一の心をも抉っている。結架にとっては、あまりにも酷だ。だが、だからこそ、集一は、出来るだけ自然体の接し方を心がけた。
病院には当初の予定どおり鞍木が迎えにきて、彼の運転でホテルに着くと。弦子がロビーで待っていた。隣に控えていた女性が総支配人だと紹介されて驚く。年齢は、弦子と あまり変わらなさそうだ。それほど華やかな容姿ではない。しかし、自信に満ちて涼やかな立ち姿には威厳がある。結架を鞍木と弦子に任せて先に部屋に行かせてから、彼女にホテル内の警備について尋ねると。
「ご用意いたしました お部屋の周囲にある防犯カメラの映像は、真谷氏と担当チーム各自の端末に同期連携しております。隣の部屋には二十四時間体制で警護を配備し、緊急通報装置の起動と同時に総員が行動開始できるでしょう。当館の警備員と、従業員の主だった者たちとも連携をとるよう、双方に指示してあります。ご安心ください。上下を含めたフロアの全室を空き室にはしておりませんが、正確な詳細を把握できていない宿泊客はおりません。そもそもエレベーター制御システムの監視もしておりますから、疑わしい人間はフロアに立ち入ることさえ不可能な筈です。警護の待機は、あくまで念のためですね」
すらすらと、望んでいた以上の回答が返ってきた。
国賓待遇かと思えるほどの厳重さだ。
複雑な心中を表情に出したつもりはなかったが、総支配人は微笑みを深くした。
「総代表の ご指示です」
「……父は何と?」
「あらゆる間違いが起きないように、というよりは、間違いを起こそうと考える者が絶望するくらい徹底して隙のない陣を敷くくらいが丁度いい。とのことです」
集一は、ため息まじりに応えた。
「ありがとう。想定以上の布陣を敷いてくれていて、助かるよ」
「お任せください」
経営者の身内とはいえ、随分と仰々しい。しかし、もう二度と、堅人や彼の息がかかった者を結架に近づけさせないために。彼女が落ち着いて生活できるようになるまで。与えられる支援を享受するのに抵抗はない。
「警護チームに会えるかな」
「勿論でございます。ご案内いたしますね」
そのまま総支配人は先に立って歩き出す。
柔らかな絨毯が靴底を包むようにして衝撃を吸い込んだ。とはいえ、車椅子なども想定しているのだろう。車輪に絡まるような素材ではない。
徹夜開けで過敏になっている感覚を和らげてくれる、心地よい歩行を叶えてくれた。
防犯カメラの映像を常時確認しているという説明を裏付けるように。到着する直前に、その部屋の扉が開いた。
「久方ぶりに お目にかかります、集一さま」
紳士服を着込んでいても判る、鍛えられた雄々しい体格をした、無表情が常態の男性。
「真谷さん。来てくれて、ありがとう。この間も世話になったね」
「勿体ない お言葉です。どうぞ、中で」
「そうだね」
長居するつもりがないことを察している彼に、ソファに腰を落ち着けると同時に警備計画書を渡された。卓上に緑茶を置かれ、短く礼を言いながらも、意識の大半は書類の内容に向かっている。
それが可能な限り こちらに不自由を感じさせない、しかし鉄壁の防護を追求するものであると理解して、集一は満足する。
「不備や追加すべき ご希望は ございますか」
「ないよ、ありがとう。宜しく
長く接してきて、それは集一からの最上級の言葉と分かる真谷だったが、表情は微動だにしない。心が動いても顔の筋肉は固まったままだ。だが、その瞳には、明るい光がある。
「そろそろ演奏会が続く ご予定でしょう。国内とはいえ、お連れするか どうか迷っておいでなのでは?」
「うん。でも、離れる気はないよ」
「でしたら、お近くに人員を配置いたしましょう。もう これまでのように撒くなんてことは なさいませんでしょうから」
真面目な表情と声で投げかけられた皮肉に、集一は苦笑した。
授業も試験も受けるのを放棄して教室から抜け出していた少年期のころ。生来の頑固さと反抗期の頑迷な自我の激しさから、外出時は付かず離れずを保とうとしていた警護人を振り切って行方をくらますなど日常茶飯事だった。
校内では、生徒たちを守るために配置された専任の警備員だけでなく教職員のうち人脈に繋がりのある人物が。校外では真谷が。それぞれ集一の身の安全を維持し続けるために見守っていたのだが。
思春期に入り主張を通すことへの執着が強くなった。そうして我慢の限界を迎えたのだ。それまで溜まりに溜まっていた不満や憤りが弾けて、自制心を最大限に働かせて振る舞っていたことを自ら否定し、被っていた優等生の仮面を かなぐり捨てた。そうしても望む理解が得られないと悟った彼に、微塵も躊躇いはなかった。
真面目を装うのも、勉学への努力を見せかけるのも止めた。
連日サボタージュし、試験の答案は白紙で提出し、課題は手をつけず放置。教師の問責も
環境に安心感を得られたので、集一は用意された部屋に向かった。
ホテルに四室あるスイートルームのうちの一室で、寝室が二つと居間、浴室とシャワーブース、化粧室まで備わっている。
居間のテーブルには軽食や果物、菓子類が用意されており、先に着いていた三人が集一を待っていた。
「安心できて?」
母の問いかけに頷く。
「ここより安心できる環境の新居を探すのは骨が折れそうです」
そう答えると、彼女は声をあげて笑った。
「多分、誠一さんは確信犯よ」
使える限りの財力と権限を振るった父に敵うわけがない。優秀な人材も自由に出来るのだ。これまで様々に阻まれてきたと認識してきたが、彼が本気でそうしていたら、楽器を持ち続けることも不可能だったのかもしれない。かといって、憾みが氷解するわけではないが。
「因みに、催事用宴会場が空いているときは、そこを使えるように通達してあるわ」
日々の修練を再開できるのは助かるが。
両親から至れり尽くせりの対応をされることに慣れない。
「……ありがとうございます」
疑懼を隠しきれない集一の謝礼に、弦子は何もかも見透している瞳を向けて微笑んだ。
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