第7場 愛の熾火から上る罪悪の煙
──だから もう何もかも忘れるがいい。俺のことも、おまえ自身の気持ちも望みも。どうしたって、それが叶うことなどないのだから。
未練を残すなど許さないと言いたげな言葉であっても、普段通りの淡々とした冷たい声色と、突き放すような口調だった。それでは寧ろ玲子の心を引き留めてしまう。だが、彼は、そうと気づいていない。
優しく言われていたなら、絶望していた。
殊更に きつく言われていたなら、反発していた。
──でも。
いつもと変わらない無関心さで投げ遣りに放られた発言が、結局のところ玲子の胸に届こうが届くまいが。
彼には、全く重要でないのだろう。
気紛れに与えられた情報が、玲子をどれだけ苦しめようと、どれほど悩ませようと。彼に責任を負うつもりはない。
ただ、自分から、彼女を遠ざからせたかっただけ。
恐ろしい過去の事実を語るときは玲子の反応を確かめるために向けられていた両眼が。語り終えれば何もかも関わりを断つと宣言するかのように。ただ、窓の下の中庭を見下ろす。彼女が去ることを期待しているのだと言外に示して。
冷たい霧雨が辺り一帯を覆い、暗い室内を普段なら照らしている数多の電灯が、今は一つとして点っていない。机上の、ヴェネツァアングラスのランプでさえ。
屋敷全体が静まり返って、心が
レースのカーテンも開け広げているのに、昇ってきた筈の太陽が雨雲に隠された空から降る光は弱く、部屋の隅には濃い闇が横たわっていた。家具の陰にまで闇が取り憑いているように見えて、おどろおどろしい。
数時間前、玲子の目を盗んで外出した彼が帰ってきたところを捕まえ、何処で何をしていたのかを問うと。
返ってきたのは、長い罪の告白と、己れの為に手を引くようにという勧告だった。
背を向ける彼を振り向かせたくて、玲子は不穏当な質問を考え出す。
「……私が結架さんに
堅人は微かに肩を震わせ、鼻で
「俺と敵対したいのなら止めはしない。話したければ話すがいい。どうなろうと、もう、俺の手は
「あたしが居るわ。あたしが、あなたの傍に、ずっと」
そうしたいのと訴えても。
堅人の心は動かない。
「俺には結架だけだ。おまえじゃない」
「どうして……」
「この地上に天使と見紛う存在が、そうそう居るものではないだろう」
「天使でなきゃ駄目なんて贅沢よ。人間の女にも、天使と似たところが見つけられるかもしれないじゃない」
堅人を否定しないよう食い下がったが、彼は視線すら寄越さなかった。遠い何処かを見つめて呟く。
硝子に映った彼が拳を握ったのが見えた。
「紛い物など得られたとしても虚しいだけだ」
その声に、初めて弱々しい響きが聴こえて。
玲子は こみあげる涙を堪える。
──紛い物。
初めて抱かれたときすら、彼が自分をそう認識していることを理解していた。そして、その辛い現実から目を逸らし続けてきた。肌を重ねる毎に、きっと本物になる。代わりなどない本物に。そう信じて、結架の身代わりでしかない立場に甘んじてきた。
後悔はない。
けれど。
だからこそ。
諦めるなど出来ない。
──あたしを抱いても虚しいだけだった?
首肯されるのを恐れ、発するなど出来ない問い。
沈黙の末に堅人が細い吐息を洩らした。
「……結架の母親と、その妹たちをも殺してまで、この手から離れぬようにしてきたのにな。唯一の家族であることの価値に惑わされて、この
目を伏せる。
「どうして殺したの?」
「おまえに理由を告げる必要があるか?」
「あなたが殺した人たちは、みんな、あなたから結架さんを取り上げようとしたんじゃないの? それを阻止しようとして、皆、排除したのでしょう? でも、それなら、どうして榊原さんは殺さないでいるの」
「……さあ……どうしてだろうな……本当に……」
結架の瞳を見てしまったから。
男の上に身を屈めて。互いに声もなく。指を絡め合って。溢れる熱い愛の言葉を交わすのに夢中になる姿は。
もう、天使に見えなかった。
だから、結架に気安く触れる集一を殺すつもりで手にしたショールで。
堅人は結架の頸を締めた。
昔から、強い恐怖と驚きによって、彼女は気を失う。
無抵抗となる。
そうして結架の肉体ごと、魂を鎖に繋ごうとした。一儀に及ぶという行為によって。
ふたりの様子から、未だ、彼らが無垢な関係であることは確信できたからだ。
今なら まだ、結架は、身体で男を知ってはいない。
ならば。
この手中に完全に収めてしまえば。
結架は自ら、恋人のもとを去るしかない。
捧げるべき処女を堅人に渡してしまったと知れば。
愕然として絶望の波に呑まれたところを。
この愛欲に繋ぐ。
そうして。
結架が集一を失うのではなく。
集一に結架を失わせたかった。
きっと、それを実現させたかった。
それが叶わないと理解して、それでも諦めきれずに足掻いて集一を揺さぶった。望んだのとは逆でもいい。結架をこの手に出来るなら。そうして、最後の切り札を捨て身で使った。それでも。
失われた愛する宝が決して損なわれない護りに包まれているのだと思い知らされた。
もう、どうあっても、決して得られない。
「これから、どうするの?」
「……おまえは役目を終えた」
「あなただけで決めないで」
「なら、これを興甫に渡せ」
漸く振り向いた堅人だが、目は向けないまま、机を隔てて厚みのある茶封筒を
そっと手を伸ばして取り上げる。厳重に封緘されている、それの正体は想像もつかない。
「自分で渡さないの?」
手に取ったものの、そう尋ねると。
矢張り凪いだままの語調が応えた。
「俺を
「興甫くんには従うの」
「ひとつくらいは それも いいだろう」
──最後に。
言葉に出さず、堅人は胸中に呟いた。
集一に唯一の存在を根こそぎ連れ去られてしまった、今はもう、闘うどころか立っていることすら困難で。自分が呼吸しているのも不思議でならない。
この執着を絶やすためになら、苦労はないが。
残すべきものがある。
その準備をするために、玲子を追いやる必要があった。
必要なものは既に揃っている。
あとは。
配列して起動するだけ。
「すぐ戻るわ」
玲子が言い残した言葉に、少しずつ準備を進めていて良かったと彼は思った。
独りになると、受話器を取り上げる。
応答した相手に。
「あなたに贈り物を遺すことにしますよ」
幾つかの指示を出してから、返事を待たずに通話を切った。
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