第6場 一夜の花であっても徒花には非ず

 失神した結架が意識を取り戻す前に。顔を灰色にして凍てついた表情となった堅人は、音もなく病室から出て行った。このまま彼が身を引くと楽観視するのは危険だろう。しかし、抵抗を示さずに この場を辞して行ったことに安堵の息をく。

 ベッドに横たわらせた結架の頬に残る涙に手巾ハンカチを当てた。先ほど少し動いたと思ったが、まだ、目覚める気配はない。無意識に握り締めた拳に、伸びた爪が食い込む。

 結架と対面するのも躊躇うほどに堅人への怒りを示していた鞍木が、この病院に入院しているという情報を洩らしたとは思えなかったが。彼の反応も確かめようと、規則違反を承知で携帯電話を操作した。

 結架の荷物を運び終えたところだった彼に通話が繋がってすぐ、堅人が来たことを伝えると。彼は暫く絶句した。

「一応の監視役をつけてはいたが……」

 絞り出された声にある苦しみは本物のように感じられる。

「どちらかといえば世話係だからな。すまない。もっと警戒するべきだった。あいつに、そんな元気が残っているとは思わなかった、おれの過失だ」

「……いえ。僕も知己しりあいの運営する病院だからと油断していましたから」

「しかし、どうやって結架くんの居場所を知ったのか……明日が退院で良かったかもしれないが……」

 とりあえず今夜は眠らないことを宣言しておく。

 鞍木は深い溜め息で答えた。

「そうせざるを得ないだろうな」

 憂悶で陰った声に偽りは聴こえない。彼は手を打つと言ってから、真剣な口調で会話を閉じた。

「──結架くんを頼む」

 短い返事をしてから通話を切って、暫くは頭の中を空にするように、長く深い吐息を放つ。

 すると、微かな、弱々しくも振り絞られた声がした。

「結架」

 身を起こそうとする動きを助け、そのまま抱きしめる。けれど、その両腕は力なく、だらりと下がったままだ。

「ぜんぶ わるい ゆめなら よかったのに」

 緩慢に流れた、抑揚の抜け落ちた声。

 薄い背中を撫でながら、

「そうだね」

 答える言葉が正しいのか分からない。

 沈黙を破ったのは、痛みに耐えかねた声だった。静かで穏やかな音量と声質であるのに、それは紛れもなく、耳をつんざく悲鳴だった。

「……あなたに軽蔑されるのが耐えられないの……」

 感情を消そうとしているのが聞き取れた。

 先程の堅人から投げつけられた言葉が、彼女の生命力を著しく削ったのだと理解して。

 抱きしめる腕に力を込める。

「そんな心配をする必要なんてないよ、結架。ありえない」

 短く息を吸って、

「私が私を軽蔑しているのに、あなたはそうではないなんて、そんな」

「きみが自分自身を軽蔑するのを止めるよう心がけてくれないと、僕は辛くて堪らない。きみの苦しみを軽く出来ない僕を、僕が許せるとでも思うかい?」

 優しく遮って紡いだ言葉が、結架の心に届くよう祈る。

「意地とか自尊心で、きみを手放さないんじゃない。きみから離れられないだけなんだよ。離れたら心が無事ではいられないほど、愛しているから」

 結架は黙ったままでいる。

 その首筋に唇を寄せた。月光の照らすなか、爪痕が痛々しい肌へ口づける。

「僕には確信があるんだ。きみが傍で生きてくれるなら、僕らは絶対に幸せになるよ」

「どうして……」

「こんなに胸を痛めてしまうほど、きみが僕を欲してくれるから」

 彼女は震えだした。声までも。

「そうよ、愛してるの、集一。あなたを愛してる。あなたに私の総てを渡したかった。そうして、あなたの総てが欲しかった。だけど もう遅い」

「遅くとも、それは関係ない。僕は今も きみを求めてやまないし、きみだって そうなのだから」

 柔和に穏やかに話そうと思うのに、どうしても熱が高まってしまう。この涙に含まれている苦悶を歓喜に変えるには、どうしたらいいのだろう。

「きみの尊厳を守れなかった僕を許してくれなんて、とても言えないと思ってた。こうして傍に居させてくれるだけで充分だと。だけど、もう、それだけじゃ足りない。僕にとっては、これから きみと幸せな家を築くことが何より大切で、必要不可欠だから」

 そっと身体を離して、涙に濡れた顔を見つめる。無垢で清廉な、雑じり気のない真心が見える瞳。

 親指を滑らせ、雫を払い落とす。

「僕を許してくれないか? 結架」

 彼女は泣きながら首を横に振った。

「最初から、あなたは、なにも悪くないわ。それでも許しが必要というなら、ずっと許されてるとしか私には言えない」

「なら、お互いに、悔やむのも責めるのも止めにしよう。その苦しさを消してあげられないとしても、きみ一人に負わせるつもりはないんだ。棄てられないなら一緒に持とう。そうして、その重さを忘れるほど幸せも掴もう」

「あなたを、これ以上、巻き込めないのに」

「でも結局のところ、きみが離れようとしても、ずっと僕に追いかけられてしまうよ?」

 頬に、耳朶に、首筋に、何度も口づける。

「きみのもとにしかない幸せを僕のもとにだけ留めようとするのを、誰にも止められやしない」

 そして、みどりを帯びた茶色い瞳を覗き込む。

 拒まれれば退くつもりだったが、その潤みに恐怖や忌避は見えなかった。

 最初は遠慮がちに、やがて深く口づける。

 集一は拒絶反応を恐れたが、結架はただ受け入れるだけでなく、応えようとした。

 絡めた舌に甘い蜜が豊かな味わいを齎し、歓びが弾け、脳髄が蕩けるかのような恍惚感が高まる。以前と同じだ。変わってなどいない。あたたかく吸い付いて、細胞が融け合うかの如くに馴染む。我を忘れそうなほど。しかし、集一は、それ以上を求めてしまう前に顔を離した。結架が自ら望むまで、堅人と同じ無体を強いたくはない。

 柔らかな頬を手のひらで包んだ。

「きみが僕のことだけを想えるまで、いつまででも、傍で待ち続けるよ。僕らには、きっと、もう暫く時間が要る。でも、こうして一緒にいられるのが幸せだ。きみを抱きしめていられるのが僕には幸せなんだよ」

 その手に結架の手のひらが重なる。彼女は両目を閉じた。零れ落ちていく涙が それで塞き止められたならいいのにと、願わずにいられない。

「あなたに触れたいのに恐ろしいの」

「わかってるよ」

「触れてほしくても辛くて苦しくて怖い」

「大丈夫だから」

「これが若し一生そのままだったら」

「それでも傍に居てほしい」

 背中に回した手に力をこめると。

 結架は簡単に傾いて集一の胸に身を預けた。疲れ果てたように。深く、緩やかに呼吸する華奢な身体を、楽な姿勢になるようにと支える。

「明日は退院だから、もう眠って。大丈夫。何も起こさせないよ」

「あなたは……」

「きみが こうして安らいでくれるのが嬉しくて眠れそうにないんだ」

 心身の疲労で朦朧としている結架の目蓋は下がったままだ。集一の声が聞こえているのか、いないのかも、定かではない。

「ゆめのなかでなら……」

 頼りなく幼げな声が無防備に呟く。

「わたしを だいてくれる……?」

 恐怖や嫌悪感でズタズタにされた愛慕であるのに。

 心身の疲労に消耗して睡魔で茫洋とした意識であっても集一を求める気持ちはあるのだと示した彼女が愛おしくて。涙を堪えるのに顔を歪めた。

「もう ずっと以前から、そうしてたよ、結架」

 現実に肌を合わせる瞬間を待ち望みながら。

 音名を数えることで理性に訴えて。

 彼女が抱き返してくれるほどに高まるまで待っていた。

 同じほどに昂らなければ愛し合っても歓びは得られないと思っていたから。

 大切に、本当に大切に待っていた。

 蕾が膨らみきって、綻んで、花弁を大きく開いてくれるのを。

 一夜ひとよの夢ではなく、幾晩でも満開となるように。

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