第5場 告解を装う堅信(3)
重い沈黙の中、堅人は姿勢を変えた。しかし、集一は動かない。
窓辺で腕を組み、堅人は自分を抱えるように腰を曲げて立つ。その黒い瞳には、集一を憐れむような光があった。彼は実際、集一を憐れんでいた。この、人生に恵まれた、美しく才能豊かな青年は、呪われた家に生まれた忌むべき兄妹に巻き込まれたにすぎない。恐ろしい罪悪そのものによって育てられた、残酷で誇り高い兄と、優美で清らかな妹。その、純粋な絆に絡めとられた、犠牲者。
だからと断言するほど単純ではないにしても。堅人は集一を殺せなかった。結架を求めずにはいられない、その仕組みが理解できてしまった。失えば魂が滅びてしまう。それは無理からぬことだ。それほどの存在だった。結架という、人間の身体を持つ天使は。
そして、結架を繋ぎとめるのに、集一を殺すのは避けるべき行為でもあった。彼女を縛るのは堅人の愛であって、集一の喪失ではない。集一は、叔母夫婦とは違う。結架は彼と死別したら、自ら後を追うだろう。そのことを堅人が理解し、かつ認めたのは、結架の純粋さを渇仰していればこそだった。そして、堅人にとって集一は、自分自身とも思えた。結架を熱愛する、その想いの深さが、自分と全く同じものであることを認めざるを得なかった。命を、魂をわかちあうべき、ひと。それは有益な母胎でも、可愛い姪でもない。唯一の最愛のひと。結架を、ただ、愛していた。
集一を殺さずに結架を失わないために、堅人は長い間、圧し殺してきた欲求を解きはなった。彼女が自ら集一のもとを離れるように。
集一の死と、結架の強奪は、どちらにしろ結局は同じ結末を呼びかねなかったが、堅人には考えがあった。あのとき、本当は、堅人は結架を部屋に閉じこめるつもりだった。外に出さず、堅人が集一に危害を加えないことを約束するため、自由を兄に捧げることに同意するよう、結架に迫るつもりだった。オペラ座のエリックのように。彼女が、あれほど激しく混乱し、抵抗し、飛びだして行かなければ。あの反応は堅人の想定外だった。彼女は茫然自失し、なんの力もなく横たわるはずだった。堅人の腕の中に。そうであれば、彼はゆっくりと時間をかけて結架の心を支配できただろう。昔のように。そして完全なる契りを結び、真実を明かしただろう。彼女の永遠を手に入れるために。
しかし、そうはならなかった。
結架は既に己のすべてを集一に捧げ、そうでない自分の存在を許せないほどに固執していた。だから躊躇うことなく死を望んだ。止める間もなく、堅人の手から逃れて。
そして堅人は、あまねく すべてを失った。
「きみは、俺から何もかもを奪った。生きてきた理由も、生きていく目的も、存在意義も、価値さえも。いまの俺は世界と接するすべも持たない」
集一は首を横に振る。そしてドイツ語をやめた。たとえ意識がなくとも、結架にも語るために。
「あなたには、あなたの人生がある。結架と道が分かれただけだ。あなたがしたことは、結架から、たったひとりの大切な兄を取りあげた行為でしかない。彼女の心を踏みにじり、傷つけた。
僕は、あなたを決して許せない。そして、あなたは許されるべきじゃない。あなたは、それを背負っていくべきだ。だが、人生を捨ててまで償えるとは思わないでくれ。苦しみ、生きろ。あなたにできる償いは、それだけのはずだ。二度と、結架に近づくな。結架は僕が護る」
堅人の顔が奇妙に歪んだ。
絶望と、懇願を混ぜたかのような。
「俺がした以上のことを、きみに できるとでも?」
誰かを殺しても結架を護れるのかと、堅人が問う。
集一は冷厳な目で堅人を見返す。心にある憐れみを隠して。
「あなたは自己愛で結架を求めてるわけじゃない。結架の死を望むことなどないでしょう。僕は誰かを殺さなくても結架を護れる。そういう意味では、あなたのした以上のことを できるとは言いません。でも、あなたには到底できないことを僕はやります。結架の命も、心も、自由も護ってみせる。彼女が望むように生きていけるよう」
彼は食い下がった。
「俺の
集一の表情に、はじめて憐憫が閃いた。ほんの一瞬。
殺人に関して日本語での会話を拒む堅人に、彼はドイツ語で応えた。
「……証拠はないのでしょう。事実かどうか、誰にも確認はできない」
「凶器と死体は証拠になるだろう。そもそも、結架は知らないが、記録上、父は心中で死んだことになっている。犯人が息子に訂正されるだけだ」
集一は黙った。彼には、解っている。この期に及んでも、堅人は集一に自ら引き下がらせるために言葉を選んでいる。
彼は、堅人よりも冷ややかだった。
譬え彼の話が漏れなく事実であっても。
もう、亡くなった人々の死は完全に処理されている。それを覆したとして、堅人が結架を取り戻せるわけでもない。
静かに沈黙を破る。
「あなたには、それを公にはできない。こうしてドイツ語で語る、あなたには。結架を、これ以上、傷つけたくはないのでしょう」
今度は堅人が黙った。
「たとえ歴然とした証拠があろうとも、あなたには、自分から罪を明らかにして懺悔することは、どうしたってできない。結架のために。あなたが語るのは、僕が自発的に結架から去るよう、仕向けるためだ。解っているんです、堅人さん。でも、僕は結架から離れない。離れられないんですよ」
月が雲に隠れる。堅人の表情は、再び闇に沈んだ。
「あなたの罪は、結架から始まったのかもしれない。でも、結架は関わっていない。関わっていたとしたら、彼女は、あなたから離れてイタリアに行くなど、しなかったでしょう。なにも知らないからこそ、自由を望んだんだ。結架は、そういうひとだ。あなたのほうが、よくご存知ではないのですか。結架の精神は天使のようだと」
「そうだ。だから、俺は、結架なしに生きられない。この邪悪を、穢れを、その無垢を護るために存在させるものとして。俺と結架は、裏と表だから」
「終わりです、堅人さん。あなた自身が終わらせたんだ。ほかの誰でもない、あなたが。結架を蹂躙したときに、あなたは結架の兄の資格を放棄した。彼女のそばにいられる価値をなくしたんです。それは、もう取りもどせやしない。結架は僕が連れて行きます。あなたの名を聞くだけで苦しむ結架を、それでも愛しているなら、堅人さん。あなたは去るべきだ。永久に」
堅人は後ずさった。
「それが、どれほど辛いことか、僕にも解ります。できることなら、あなたに兄として結架を見守ってほしかった。でも、いまは許せない。水に流せるようなことじゃない。あなたは、結架を殺すところだったんだ」
集一の瞳に、同情も憐憫もない、死刑執行人のような無感情が満ちた。刃を振るい、囚人を屠るのに、どうしても必要な冷徹だった。
「そして、これからも。あなたは結架を殺しかねない。だが、あなたは結架を死なせたくないはずだ。そうでしょう。だったら」
堅人が目を背ける。
「……それ以上、言うな」
呻きながら、消え入りそうな声で囁く。
集一は腕の中で結架が小さく動いたのを、堅人に悟られないように力をこめた。
「結架を、そして、あなた自身を解放してください。もう二度と、結架の前には現れるな」
それは堅人にとって、死刑宣告も同じだった。
しかし、それは二度目であったことを、集一は知らない。
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