第5場 告解を装う堅信(2)

 集一は唇が切り裂けそうなほどに噛みしめ、その屈辱に耐えた。混乱しきった結架が我を忘れて暴れ、彼女自身を傷つけようとするのを、全力で抱きとめて抑え、防がなければならなかったのだ。華奢で儚げな細い身から、どうすれば、これほどの力が出るのか。僅かでも腕を緩めれば、きっと止められない。譬え窓が閉まっていようと、鍵が掛かっていようと。だのに窓は開いている。しかし、そんなことは関係なく。爆発の威力は硝子をも貫いて、ただ空を目指す。解放を求めて。そうして身体も魂も残らず砕けてしまおうとする結架を失わないために。けれど。

「……あなたを殺してやりたい」

 呪うように低く、集一が声を絞り出すと、ぴたりと結架は止まり、一気に力を抜いて彼に身を委ねる。溶け崩れるように。

 堅人の声に愉悦が浮かんだ。

「殺す──? それは願ってもない。やれるものならば試みてみるがいい。さあ、すぐに、今ここで」

 だが、それに結架が大きく反応した。集一の危機を感じて、恐れと苦悶から自ら脱する。

「だめ……っ、だめ、集一……! 離れないで……‼︎」

 その言葉が示すのは、集一という存在を守ろうとする結架の強い想いだ。彼の手を汚させない。未来に傷をつけない。そう選択することに罪悪感すら抱かせない。瞬きするよりも短い ほんの一瞬で、それだけのことを心に決めて実行した彼女の集一への深すぎる愛が、彼の冷静ささえ守ってくれた。

 堅人を睨みつけながら、集一は結架の髪に頬を埋める。涼やかな声が彼女の心に強く響いた。

「大丈夫だ、結架。そばにいる。何があろうと絶対に離れやしない」

 堅人の全身に渦まく禍々しさが強まった。

「……だが、消せはしないぞ、結架。おまえには、俺との愛と絆がある。俺の一部を収めた場所がある。そして、まだ、この いまも、そこには俺の痕跡が残されている。おまえの体内の泉に溶けあった、俺の命の水が。これからも永遠にな。おまえの息が絶えるまで薄れはしない。そうして何時でも、何度でも与えよう。思い出す度に痺れるような愛を」

「……!」

 激しい灼熱の憎悪に我を忘れそうになった集一の胸に頭を埋め、結架が気を失った。あまりのことに耐えかねたのだ。

「結架」

 集一は、死んだように青白い顔をした結架を、遠い日の彼女の怯えとともに見つめる。きっと、あのときから、結架はこの恐怖とともに生きていた。集一が何も知らずにいた頃も、薄々気づいていたときも、それを忘れていたあいだも。ずっと。

 それでも堅人は足りないようだった。

「素直な おまえが、無意識のなかにも俺の律動に応えるのは当然──」

「やめろ!!」

 もう睨むことすら、汚らわしい。

 だが、堅人は身に纏う空気を変えた。

「──結架はマブ女王のもとか?」

 その声に、先ほどまでの戯れるような軽薄な調子がなくなっていたので、集一は顔を上げた。

 影は窓に背を向けているので、その表情まではわからない。

 いつの間にか夜となった空に、月が浮かんでいる。

 堅人が次に口にしたのは、日本語ではなかった。

「きみは日常会話ていどならドイツ語ができると聞いたが、本当か?」

「……Jaええ

「それはいい。結架には聞かれたくない。たとえ理解できなかろうと。失神しているだろうが、いつ目覚めるか、わからないからな」

 集一は沈黙を保った。堅人が、なにを考えているのか、まったく解らない。

 身震いしそうなほど、その声から狂気が消えている。燃えさかる憎悪まで。静かで理性的な響きは、冷え冷えとしていた。否、温度すら失っていた。そこには、ただ、透明なまでに掴み所のない、名状しがたい、人間の姿を持った何かが佇んでいる。次の動向の予測さえつかない存在が。

「不思議そうだな。だが、。祖母に幼いころ、ドイツ語を厳しく仕込まれた。結架は祖母の存命中には生まれていなかったから、間に合わなかったがね。だが、イタリア語は堪能だ」

 それにも集一は返事をしなかった。

 しっかりと結架を抱きかかえ、影の動向に警戒の目を向けつづける。

「きみは結架のために、どこまで できる? 何を犠牲に できる?」

「……どういう意味です」

「俺は結架のために、この人生の すべてを捧げた。独りで逃げることもできたが、そうしなかった。結架を地獄においていくなど、できやしない。だから、俺は地獄に生きつづけた」

 空気から邪悪が消え失せている。

 静かに穏やかな語調で響く堅人の声。長く生きすぎた賢者のように感情のうかがえない……。

 衝撃に集一は息をのむ。

 簡単には受けいれられない言葉だった。

「父殺しの罪を背負うほどの価値はあった。あの男は悪魔だったから。自分の音楽的価値のために、妻も子どもも、無慈悲に殺してきた、非道な男だ。そして、ついには俺の大切な、たったひとりの魂のあるじにまで魔手をのばした。守るには殺すしかないと、誰でも判断しただろう」

「なにを……」

 堅人が身をよじり、空を見上げる。語りつづける承認を得ようとするかのように。光に向けられた顔は静かで、悲痛なほど美しい。月明かりに照らされた黒い瞳から、いっさいの感情が消えた。真実は残酷で、邪悪ですらある。それを語るのに、心を無防備にするのは危険だ。

。自分の血をひいた、最高の音楽家を欲した。愛情なんて微塵もない」

「な……!?」

 結架を抱く腕に無意識に力がこもる。

 集一は、愕然とした。

 結架が……。

「実の娘に、まさか」

 皮肉をこめた微笑が堅人の顔を彩る。その視線は月へ向けられたまま。

「実の娘か。そうだな。そういう愛情が、あの男の心に、ありつづければ よかったんだが、な。

 だが、あの男は、自分の音楽しか愛していなかった。それ以外は音楽のために利用できるか、できないか、ただ、その どちらかだ。当然、利用できないものを存続させるほどの慈悲もない。な。俺も結架も、自分の才能の分身であり、高みに昇る手段、材料にすぎない。そう思っていただろう。だから、殺した。母親は結架を娘として愛していたが、無能な上に結架を危険に晒した愚か者だったからな。一緒に始末したよ。俺から結架を引き離した、叔母夫妻も許しがたい罪人だ。俺たちには必要ない」

 集一が耐えるように両目を閉じ、結架の髪に頬を埋めた。

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