第2場 生きる苦悩、生かす渇望(2)
目を向けると、弦子が壁にドライフラワーのリースを飾っている姿が見えた。青灰をおびた紫と明るい緑の輪を、クリーム色のリボンが綴じている。そこから広がるのは、甘やかで、それでいて冷涼な空気。
「ラベンダーなのだけど、苦手ではないかしら?」
「はい。とても良い香りだと思います」
「良かったわ。ラベンダーはフランスが有名だけれど、私はブルガリア産のものを好ましく思うの。主張が穏やかで、包容力があって」
確かに、ラベンダーだとは解るものの、それほど強い香気ではなく、落ちついて控えめな品のよさと素朴さが同居している。
「高貴な上品さや華やかさを求めるなら、プロヴァンス産でしょうけどね」
楽しげな口調だが、独語のようにも聞こえて、押しつけがましくない。
だからこそ、反応してしまう。
「私も このラベンダーの香りが好きです」
「あら嬉しい」
本当に心から喜んでいる笑顔を浮かべ、弦子が近づいてくる。途中でテーブルから蓋付きのマグカップを取り上げた彼女は、寝台の横、集一の定位置に腰かけると、それを差し出した。
「どうぞ飲んでみて」
「ありがとうございます」
受け取って口をつける。まだ温かい。
酸味があるのに甘く、ほんのりとした温もりが喉から胸に広がる。すぐに飲み干してしまった。
「……美味しいです」
「それなら良かった。カムカムという南米の果物の果汁に蜂蜜とお湯で味を整えたものなの。最近、流行しつつあるのよ。美容にも迚も良いのですって」
ころころと笑いながら続ける。
「貴女と会って集一さんが面食いなのを初めて知ったわ。あの子ったら、大切なのは心ですとか言っていたけれど、こんなに綺麗な女性を望んでおいて、呆れてしまうわね。勿論、貴女の心根も綺麗だからこそ、説得力はあるのだけれど」
ぽたりと落ちた滴に、結架は慌てて手で顔を隠そうとしたが、そっと その手を取られた。
流れ落ちてくる涙を止められない。
「我慢しなくて良いのよ」
あたたかな腕に抱き寄せられて、柔らかい身体に包まれる。
「私たちの前で、どんな気持ちも耐え忍ぶことなんてしなくていいの。甘えて頼って頂戴」
「だめ……です……っ」
嗚咽しながらも必死に訴えた。
「おねがいです。私から集一を取りあげてください。どうか私から解き放って」
宥めるように撫でていた手が止まる。
「まあ、どうして?」
本当は知らないのか。
結架は、もう躊躇わなかった。
「私は実の兄と姦淫した悍ましい者です。彼に相応しくありません。彼まで汚したくない。堕ちるのは私だけに留めたいのです。幸せになってほしいのに……!」
弦子は黙っている。
「こんな私では無理なんです。もう、そんな資格も能力も
涙で弦子の肩を濡らしてしまうのを避けたくて身体を離そうとしたが、細いのに力強い腕は、びくともしない。なのに、泣くのを止められない。どうしようもない哀しみだけが胸に満ちる。シーツを両手で握りしめた。
「結婚も、養子縁組も、断りたいということかしら。貴女なら、そう言うとは思っていたけれど、実際に聞いてしまうと、予想していたより悲しいわね……」
独語めいた呟きに慈しみが残っている。
蔑まれることを覚悟していた結架は戸惑った。
漸く緩んだ腕だったが、その手は結架の肩と頬をそれぞれ撫でる。
見つめた瞳には、無限に思えるほどの愛情が見えた気がした。赦しと厳しさとが同居した。
「あのね、結架さん。酷なことを言うけれど、
弦子の眉が下がる。
「集一さんは、貴女が辛い思いをしていることに、本当に苦しんでいるの」
自身でも気づいていることだったが、改めて言葉で告げられると、胸が引き裂かれた。
「貴女を守れなかったと自責して、苦しんで、悩んで、悲しくて悔しくて憎くて堪らないのよ」
「……っ、そうです、だから」
「だから、この上、貴女そのものまで失ったら、きっと、生きる希望を完全に
応えるべき言葉が見つからず、結架は瞳を揺らす。
まるで頭を思いきり殴られたかのような衝撃だった。
悲しげで優しい笑みが弦子の目と口許に浮かぶ。
「あの子は覚悟しているわ。貴女と夫婦生活が営めなくて子どもを得られなくても、貴女の夫となれるのなら、その幸せを守るのだと」
「そ……んな……っ」
「だからね、結架さん。どうか貴女も覚悟して頂戴。あの子を まだ愛してくれるのなら、貴女自身を貶めないで。そして、私も貴女を愛していることを、心に刻んで。以前に、誰に何をされたとしてもよ。私は今の貴女に幸せを求めてほしいの。泣きながらでもいいから、私たちと生きて、そうして ゆっくり笑うことも思い出していきましょう」
あの子にとって、貴女の支えとなれるのなら、それこそが幸せなことなのだと解ってあげて。
そう訴えかけてくる弦子に、頷くのが精一杯だった。
どうして、ここまで寛容になれるのか。
俄には信じ難い程だ。
それでも。
集一を、この世で最も愛して育ててきた存在に認められ、求められて。
心奥の隅々まで根を張っていた罪悪感と自己嫌悪が萎びていく。完全に消えるわけではないが、それは、もう、集一から離れなければという切迫した考えを強めるほどではなくなった。そう自覚するとともに、胸を覆い尽くしていた苦しみが和らぐ。
良かった。と、呟いて抱き締めてくる彼女の体温に安らぎを感じた。
久方ぶりの安穏に意識が遠退く。
そっと横たえられ、ぽんぽんと優しく掌で傍にいると伝えられて。
結架は深い眠りに沈んだ。
静かに扉を開けて入ってきた集一に気づかずに。
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