第3場 望まれる愛が望む愛とは限らない

 音楽家の聴覚と、調和を重んじて気配を察知する能力は、衰えたとはいえ今も保持している。いつから息子が廊下で耳をそばだてていたのか、弦子には正確に当てられるだろう。

 眦を濡らしている息子の表情が苦悩に陰っているのを見て、結架をここまで想える人間になってくれたのだと思えば。まだ希望は潰えていないと信じられた。手遅れではない今なら、悲惨な未来が現実のものとならぬように、目を光らせられる。

 ──ああ、グレッチェン。わたしの持ち得る総ての力を尽くすから。どうか。どうか、お願い。

「集一さん」

 囁きかけると、彼は悲痛に満ちた目をして応えた。

「はい」

 母の指が結架の頬に優しく触れていると視認した集一は、彼女の本心を疑わなくていいことに安堵していた。争いや揉め事、そして醜聞を避けるなら、結架を排除するべきだということは、きっと榊原家の側の誰もが理解している。弦子がそうすると選んでいたなら、集一は孤立無援となっていた。そうなっていたとしたら、結架を更に追い詰めただろう。

「どうしたら、この子が幸せだと思えるようになるのかしらね」

「お母さん……」

「それよ」

 指差されて、瞠目する。

 真っ直ぐに射抜く視線。

「今は結架さんが眠っているからいいけれど。そんな表情かおをしないのよ。難しいのは解るわ。結架さんの苦しみようを見ていたら辛くて悲しいのは当然だもの。でも、傍にいるのは、互いを苦しめるためではないでしょう?」

 口調は穏やかであっても、内容は手厳しい。

「一緒にいられて幸せであるなら、そう見えるよう振る舞うべきよ。少なくとも、結架さんの目から見て、貴方が不幸せに見えてはいけません」

 音楽の最初の教師であった母が昔から厳酷な教えを与える人間であったことを、集一は思い出す。そうであったから、どの師のもとでも、学ぶことに貪欲でいられた。

 そして、その言葉は、集一が忘れかけていた大切なことだった。

「寄り添うからこそ悲しみを分かち合い、同調するのも間違ってはいないでしょう。でも、ずっと隣に倒れたままでは駄目よ。どちらかだけが凭れるようになってもいけないわ」

 弦子が眉間に皺を寄せる。

「──難しいわね、本当に。わたしにも上手くやれる自信はないわ」

 その正直な呟きに、肩の力が抜ける。

 小さく笑うような声を立てた息子を見上げて、彼女は微笑んだ。

「それでも僕の幸せな人生には結架が必要ですから。やるしかありません」

 幼いころから数えきれないほど目にしてきた、強い決意を宿した瞳。

 つい、揶揄いたくなる。

「誠一さんが、貴方たちに家を建てようと考えているみたいよ」

 集一は露骨に嫌な表情かおをした。

「また、なんだって、そんな暴走を。止めてくださいね、お母さん」

 くすくすと笑う母に冷えた視線を向ける。しかし、その瞳そのものにあるのは、愛情と信頼だ。

「あまり止めたいと思わないのよ。どうやら土地のほうは幾つか目星をつけているみたいだし、施工業者は迷う余地なしでしょうし。昨夜なんて、若手だけど腕のいい才能のある建築士を何人か登川さんに見繕ってもらうかって目を輝かせていて、それはもう可愛かったわ」

「お母さん」

「分かっています。大丈夫よ。城内きうちさんからも言ってもらうから。このところ第一秘書たる彼の仕事に負担が増えていて気の毒だわ。そろそろ貴方も避けてばかりいないで対抗手段をお持ちなさい。今までのように真正面から自らが突撃するだけではなくて、搦手を用することも覚えなくてはね。父子おやこなんですから。でないと、これから誠一さんを動かすのに、結架さんばかりが矢面に立つなんてことになってしまうわよ」

 何故か結架に関して態度が甘いらしいという父の話を聞いていた集一は、それはそれで有難いながらも面倒だと思って渋面を作る。

 ここ最近では珍しく深い眠りについている結架を、幼い子どもを寝かしつけているように一定のリズムを掌で刻み続けている弦子が愛おしげに見つめた。

「この子が喜ぶのは貴方が憂いなく過ごすことでしょう。安心して暮らせるまで、まだ時間が要ると思うわ。わたしたちが言葉を尽くして、その場は納得しても、迷いや恐れが消えるわけではないのだから、恐らくは一寸ちょっとしたことで不安定になるでしょう」

「はい」

「逃げたい気持ちを抑えつけて貴方に縛ろうとしているのだもの。わたしも、結架さんにとっては敵かもしれないわね」

「そんなことはないと思いますが」

 本心から そう言ったが、母は首を横に振る。

「この子を傷つけたのは盲愛でしょう。どれだけ揺るぎなく強固な愛情でも、独りよがりであるならば、そんなものに価値などないわ。でもね。それは特別に珍しいわけではない。誰もが陥る可能性を持っているのよ。貴方も、わたしも、例外では有り得ない。どのような愛の種類であっても。誠一さんが貴方に対して示していた愛も、同じ」

 そう言われれば否定する材料がない。

 実際、父親として息子の将来を期待していたのは、根底には間違いなく愛があったのであっただろうから。それを愛ではなく支配だと、長く糾弾してきたものの。

「だから、溺れるように愛するなんていうものは、ただ醜いだけ。感情に酔っているに過ぎない。本当に愛するのなら拒まれることさえ尊重して当然です。でなければ愛と呼ぶなど愚かしいわ」

 珍しく強い語調の、吐き捨てるかにも聞こえる言いようだった。

「……肝に銘じます」

 神妙に答えると、一瞬にして険しさが霧散する。

「本当に難しいわね。心底から拒んでいるのか、建前としてか、その二択だけならば兎も角。相手のことを想うあまりに心を潰して拒もうとする、そうした場合もあるのだもの。額面通りに受け取って退いても、双方ともに幸せになんてなれないでしょうに」

「お母さんのおかげで、僕らはそうならずに済みます」

「まあ驚いた。謙虚さを示す秘訣は結架さんから教わったの? 短期間で随分と上手になったわね」

 口調も言葉も褒めるものだが、目は雄弁に皮肉だと告げている。集一は苦笑した。

「紛れもない本心ですよ」

 しかし、母の視線の色は変わらない。

「本心を押し退けてでも意地を張る頑なな子だと思っていたわ」

「以前は確かに そうでした」

「そう。ええ、そのようね」

「自分の意地を通すよりも大切なものを見つけましたから」

 結架を見つめる瞳が蕩けている。

 無理することなく自然体の、微塵も偽りを含まない素直さを目の当たりにして、弦子の目も慈しみだけとなる。

 安らかに熟睡する結架の様子に余裕が戻ってきた母子おやこは、束の間かもしれない平安を、次に立ち向かうべき何かに向けての休息とすることにした。

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