第4場 平穏な家庭への出発点
「明日には退院して良いそうね」
いつものことながら耳が早い。
明るく弾んだ声をかけてきた弦子に、結架は、もう努力をしなくとも微笑みを向けられるようになっている。彼女との会話も、気構えすることなく、ごく自然に楽しく感じられることが増えてきた。
遠慮するより多少の我儘を見せるくらいのほうが明らかに喜ぶ彼女が、当然のように結架を甘やかしている。そんな光景が すっかり日常となった。その態度は実子の集一に対するより優しいかもしれない。だが、彼自身に不満は一切ない。寧ろ、有り難いとすら思えた。結架に彼女自身の価値を伝え、必要とされている実感を植えつけてくれる存在は、多ければ多いほど良いのだから。
夜がくる度に、カヴァルリ邸に滞在していた頃よりも大きく揺さぶられて崩れそうになっている結架を抱きしめ、語りかけ、変わらぬ想いを訴える。暗示でも催眠術でも、何でもいい。意識にも無意識にも、兎も角も彼女が自ら集一と共に生きることしか選ばなくなるように。迷わず手をとれるように。辛抱強く、念入りに、言葉も表情も、声質も語調も態度も身振りも、己れの総てを駆使して働きかけた。
それを重ねていくうちに、少しずつ、彼女は相反する感情の制御をする意欲を持つようになっていった。弦子から伝えられた集一の決意が正しく
傷自体の快復は早かったので、運動は控える必要があるが、既に日常生活には支障がない。
ベッドから離れられる時間が増え、車椅子での散歩が日課となり、一昨日からは短時間ではあるものの それなりの距離を歩けている。退院が延びていたのは、外科的な治療とは無関係だったからだ。
こうして三人で、朝の散歩も楽しめるのだ。精神科医も、寧ろ日常生活を取り戻すのに退院するのが望ましいだろうと言ってくれている。
色づいた銀杏の樹の下で、にこやかに祝いと礼の言葉を言い合っている二人に、集一が大切なことを伝える。今日の風は、昨日よりも暖かい。
「まだ、きちんとした住まいは決まっていませんが、鞍木さんが当面の宿泊先を手配してくれるそうで」
しかし、それに応えたのは当事者ではなかった。
「聞いているわ。千代田区の帝苑ホテルでしょう」
集一が表情を消す。
「……ホテル名は僕もまだ聞いていませんが」
冷気を発しだした息子に、弦子は全く動じない。
「そうでしょうね。今日の午後、鞍木さんにホテルの施設案内とルームキーを渡すよう、城内さんが準備しているのよ」
「……つまり」
「うちの経営するホテルね」
思わず脱力する。
反射的に抗議しようと口を開いたが、声を発する寸前で思い直した。
鞍木から見て何の繋がりもない場所とすれば安全が確約できるのではないか。
沈黙とともに弦子の目を凝視する。何もかも把握して制御しているという自負のある視線が返ってきた。
肩を落とし、
「ありがとうございます、お母さん。お父さんと城内さんにも、後日、礼を言いに伺いたいのですが」
固い調子で尋ねると。
「結架さんが お部屋に慣れたら、ホテル内のレストランで、皆で お食事しましょう。誠一さんを連れてきてくれるのは城内さんでしょうから、顔を会わせたときに お伝えなさいな」
「そうですね」
そうした会話を すっかり萎縮して聞いている結架の様子に、
「結架の望む時期にするから、大丈夫だよ。体調に不安があったり気が進まなかったりしたら、いくらでも延期する」
「そうよ。わたしばかり可愛い娘に会っていて狡いと言ってくるくらい貴女を大切にしたいそうだから、気兼ねしなくて良いのよ、結架さん。誠一さんときたら、わたしと張り合っていて、実務的なことで役に立てば勝機はあると思っているらしいの。便利に使えば使うほど喜ぶでしょうから、上手に機嫌を取ってあげてくれると助かるわ」
「そんな。集一……お母さま……」
返す言葉に苦慮する結架に、二人は笑顔を崩さない。その様子は流石に母と息子である。微笑の迫力が、よく似ていた。
ついつい声を立てて笑ってしまう。すると、忽ち柔らかな腕に包まれた。
「お母さん。それは本来は僕だけの特権ですよ。気安く侵犯されては困ります」
語調に必要以上の鋭さが表れないよう自制しつつも集一が抗議の声を上げると。
「ふふふ。結架さんの笑顔に見蕩れて出遅れた貴方が迂闊だったのですから、潔く諦めなさいな」
弦子は一刀両断した。
優しい手つきで結架の背中を軽く叩く。
それから耳許で熱っぽく囁いた。
「胸を張って頂戴、結架さん。貴女という ひとを、わたしたちは誇らしく思っているわ。息子に人並みの愛を教えてくれて、そして応えてくれて、ありがとう」
涙が目の奥までも満たすような気持ちになり、結架は声を絞る。記憶に薄い実母を思い出しそうな心地で、その温かさに身を寄せた。
「──私のほうこそ、お母さまと集一に、傍にいられる幸せを与えてもらって、感謝しています。あまりにも幸せすぎて、これからも一緒にいたいと望んでしまうのです」
「そう思ってもらえるように頑張ったのですもの。勿論、良いに決まっていますよ」
朗らかに響く笑みを含んだ優しい声音。
背中を撫でる慈愛に満ちた手。
殆ど無意識に、結架は囁いた。子どもに戻ったかのような絶対的な安心感が全身に満ちている。
「嬉しい、お母さま。大好きです……」
「わたしも貴女が大好きよ、結架さん。本当に、もう、なんて可愛いのかしら。わたし、女親で良かったわ。でなければ、こんなふうに遠慮なく抱きしめるなんて許してもらえないもの。ね、集一さん?」
「お父さんに許す筈ないでしょう。冗談でも怒りますよ、お母さん」
「あらあら。それなら誠一さんに勝ち目はないわね、うふふ」
「そろそろ結架を返してください」
「貴方は毎晩ずっと結架さんを抱きしめていられるでしょう。ここは母に譲って頂戴」
「お断りします」
「まあー、にべもしゃりしゃりもないわね。結架さんの可愛さを見倣うべきよ、貴方」
「見倣ったら僕に可愛さが生じると思いますか」
「思わないわね」
「即答するんですね、まあ構いませんけど」
「貴方は貴方で可愛いけれど、結架さんの可愛さを知ってしまうと、淡泊なのよねぇ。物足りないというか、薄味というか」
「程々が一番でしょう。慣れてください」
「結架さんへは迚も可愛く甘えてるのにねぇ。でも、見ていて面白いから、そのままでいてほしいわ」
「言われるまでもありません。ですが、見世物じゃありませんよ」
遠慮のない応酬を繰り広げる母子の平和な様子に、結架は久しぶりに心の底から幸せを感じた。
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