第10場 熟れていく愛を救いとして(2)

 可笑しげに小さく笑った弦子が、内緒話を打ち明けるように手を口元にあてて告げる。

「あの人、結架さんが可愛くて仕方ないらしいわ。予定どおりだったなら会食をして会えていたでしょう? 昼食をともにする店を何処にするか、ずっと悩んで考え込んで、秘書たちに仕事をしてくださいって叱られていたそうよ。困った人ね」

 驚きのあまり目を瞠った。返す言葉も見つからない集一の反応を、弦子は愉しそうに窺っている。

「私もそうだけれど、あの人も、昔から娘を欲しがっていたから。貴方が見出だした結架さんのことを大切に思っているのよ。勿論、貴方のこともね。ただ、面と向かうと、どうしても意地になってしまうだけ。頭では、貴方に理想を押しつけたと、これまでのことを後悔しているでしょう」

「……そうでしょうか」

 視線を下げた集一に、母の言葉は優しく響く。

 言わないでくれと口止めされていたけれどと、彼女は淀みなく明かした。

「渋る役員たちを説き伏せて、トリノでの演奏会に協賛をしたいと財団に連絡したのは、誠一さん本人よ」

「えっ……!?」

「バーゼル音楽院の卒業資格を得ることが、どれほど困難なことか。それは誠一さんも理解しているの。だから、卒業できたと知ってからは、認識を改めるべきかと考えつつも、まだ諦めきれなくて悩んでいたわ。貴方に会社を継がせることは、それだけ彼にとって大切な夢だったから」

 驚きが戸惑いを上回り、集一は黙ったまま母を見つめる。彼女は唇に微笑を保ち、静かに語り続ける。

「オリンピコ劇場での音楽祭コンクールで貴方が最優秀賞を獲ったと報せが来てからかしらね。様子が変わったの。戸塚さんや本間さんに意見を仰いでいたわ。褒められて満更でもない顔をしていたのよ」

 その二人は、母の音楽大学時代の同期で、演奏活動の傍ら指導者としても活躍している。集一は知らなかったが、オリンピコ劇場でのコンクールの審査員の一人に、本間氏の恩師がいた。その縁で、情報が入ってきていたのだろう。

 弦子の瞳に誇らしげな光が満ちる。

「だから協賛を願い出たのでしょう。でも、長年の後ろめたさがあって、素直に応援する気持ちを伝えられなかったのだと思うわ」

 反対に集一の瞳は氷が張っている。

「協賛という手段で影響力を持とうとしたのだと解釈していますが」

 簡単に敵意を翻さない。それも無理からぬことだと思える弦子は、咎めるのではなく、言葉を重ねることを選んだ。

「完全に間違いではないけれど、どちらかといえば支配ではなくて支援するための影響力を持とうとしたのよ。だからこそ、結架さんが酒場でピアノを弾いたと糾弾する記事が劇場のホームページに不正に上げられたとき、あの人ったら、そりゃもう、おかんむりで。貴方たちの晴れ舞台である演奏会が流れたらどうしてくれるって。そうね、『土地関連融資の総量規制』なんて行政指導があったときと同じくらいの剣幕だったわね。あのときは大蔵省の沢村さんと武岡さんを縮み上がらせるほど荒れてたものだけど、流石に相手が分からないのでは誰にも抗議のしようがなくて、財団に調査費用の援助を私費で出資するに留まったのよ」

 ころころと笑いながら語り終えた母に、集一は憮然としていた。

 父が、自分の演奏会が危ぶまれて、怒り狂ったとは。協賛関係を所縁ゆかりの糸として、彼自身が邪魔をしたのかとすら疑ったというのに。

「……そうなんですか」

 これまでになく消沈する息子に、弦子の目差しは優しい。手を組んで顎を乗せ、じっと視やる。

「あれだけ冷酷に音楽を生きる糧とすることを阻んでおいて、実は貴方を応援するようになっていたなんて、今さらになって掌返しをするのかと恥じてらっしゃるのよ、誠一さんは。貴方が会社を継がないことを容認したのは最近ではあるけれど、ならば逆に支援を惜しまないと決断するだなんて、可愛らしいと思わなくて?」

「お母さん……」

 愉しくてたまらない、とでも云うような笑顔。

 息子も大切だが夫も愛している、我慢強い女性のしたたかさだった。

 やわらかな視線には確信がある。

「大丈夫よ。誠一さんにとって貴方は自慢の息子だし、結架さんは その息子の伴侶だわ。あの人が本気で守ると決めたなら、中途半端なことはしない。誰にも干渉されないよう準備を進めているところよ」

 集一が答える前に、微かな呻き声がした。

 親子ともに即座に動く。

「結架」

 目を閉じたままの彼女の唇から漏れる、言葉としては聞こえない、しかし苦悶の響きをした呟きを耳にして、二人とも眉をひそめる。

「悪い夢を視ているのかしら……」

 集一は無言で結架の額に口づけた。そうして、耳許で囁く。

「結架。おいで。僕はここだ」

 魘されていた結架の眉間の皺が浅くなる。その手を優しく包み込み、

「大丈夫だから、おいで。ずっと傍にいるから」

甘く告げる。

 母親の存在など完全に気にしていない。

 息子の結架への直向ひたむきな愛慕に、弦子は目頭が熱くなった。

 礼儀は正しくとも他人への信愛が淡く、心を傾ける姿など見られなかった これまでとは違う。全身全霊で誰かを愛することが出来るようになっていた。

 大切な存在のためなら、苦痛も憤激も抑えて制し、耐え忍ぶ。

 それを自然なものと捉えるようになれば、拒否してきた関係にも、異なる視点で向き合えるかもしれない。

「……本当に。もう立派に家族の一員だわ」

 そうであるよう期待したわけではないのに、弦子の長年の願いは叶えられそうだった。それが譬え失望する結果になったとしても。少なくとも、それで終わってしまうことはないだろう。希望が絶えることにはならない。

 そうして愛が熟れていくさまは、何よりも救いと感じられた。

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