第九幕
第1場 罪深い者と堕ちた者
自刃して果てようとした結架が救急車で運ばれていくとき。鞍木は同乗しようとしなかった。当然ながら妹同然の彼女を案じていたが、為さなければならないことがあると思ったのだ。
電話をかけて出た相手に、すぐに来てくれるよう依頼する。望んだ返事を得られたので、少しは安心だ。これで思ったままに動けるだろう。
初めて拳で人間を殴った感覚が、まだ、右手にありありと残っている。
集一を階下に残して正解だった。
彼が あの場を目にしていたなら、堅人を殴るだけでは済まさなかっただろう。
半死半生に痛め付けてから、窓から投げ落とすくらいはしたかもしれない。実際、鞍木も想像の中では実行した。愛情があるからこそ、許せなかった。
結架の部屋が空虚でありつつ、二階には、堅人の愛用する香水の薫りが濃く漂っていた。そして──男女が肉欲に溺れた後の──独特の匂いも。
信じたくない気持ちで親友の寝室に踏み入ると。
無表情ながらも呆然としたように、虚ろな目をして立ち竦む、一糸纏わぬ堅人の姿があった。ここで何があったのか歴然としていて、否定できる材料となるものを探そうとも無駄だった。
寝台の上は乱れ、白いシーツに赤黒い染みが滲んでいる。結架の貞潔が
眼前が闇に閉ざされた。
瞬間、殴りかかっていた。
抵抗もなく倒れた堅人を見て我に返る。
結架は何処にいるのだと。
こんなことになった場所に留まっているわけがない。
そして、無事でいる保証はない。
必死に理性を保とうと、思考を働かせようと努めた。
階段を駆け下りて集一に救いを求め。
ともに結架を探しに飛び出して。
兄に汚された身体を魂ごと消そうとした彼女を見つけた。
自分の不甲斐なさに吐き気がする。
もうずっと
自分の立ち位置からなら、防げたのではないのか。
自責の念が呼吸を阻む。眩暈に任せて倒れ伏してしまいたい。だが、それも身勝手に感じられるのだ。鞍木の立場で、そのような現実逃避は許されない。
結架の身心が踏みにじられた場所に、壊れかけた想いを抱えて戻った。
相馬一家は指示に従ったようだ。玄関に残された書き置きを一瞥してから、階段を上る。呼び出した人間の到着を待つつもりは
堅人は、
「堅人」
呼び掛けたが、返事はない。顔を自身の腕で覆っているため表情も分からない。
冷たい声が滑り出る。
「結架くんが自殺を図った」
がばりと身を起こした堅人が見上げてくる。
驚愕の表情。
「なにを驚いているんだ? 結架くんだぞ。当然の行動だろう」
「無事なのか!?」
嗤いが込み上げる。
「さあ。命が助かったとしても、生きようとしてくれるかどうか。おれにも、君にも、もう、そんな力も資格もない。集一くんに縋って頼るしかないな」
怒りに満ちた嘲笑を、察知できない筈もない。
堅人は沈黙した。
「君は結架くんを殺そうとした」
「──違う!」
「そうだな、違う。殺したんだ。結架くんの精神を、無惨にも。自分の浅ましい欲望を満たす為だけに」
「止めろ興甫! おまえに俺を責めるなんて出来ない! 俺は結架を、ずっと守ってきたんだ、あの悪魔の手から!」
意味の分からない言葉に、顔を
「俺が殺したのは結架じゃない!」
絶叫し、肩で息をする。
その姿が、初めて哀れに見えた。
「……おれは君を許せない。あの子は、おれたちの大事な妹だと信じていたのに、君には違った。想い出も未来も、君自身が壊したんだぞ、堅人。それが解らないのか?」
堅人の瞳に漸く弱い光が灯った。悲痛と云う名の。
しかし、もう、遅い。
どれほど悔いても、激情に駆られて結架を暴行した罪深さは償いきれない。
「おれの妹を強姦して辱しめた報いを受けろ。完全なる孤独に陥って初めて判るだろう。どれだけ酷い罪を犯したのか」
「結架は何処に……」
「もう君とは関係ない」
「結架……結架……俺の宝の女……俺の魂にして唯一の光……」
正気を失いかけている、かつての親友を見据える。無理もないことだが、同情心は欠片も浮かんでこなかった。
「興甫くん」
背後からの呼び掛けに振り返らずにいると。
「え……堅人さん……?」
困惑し、焦りながら、彼女は一目散に堅人に駆け寄った。慌てながらも収納庫から毛布を出してきて、堅人の肩から掛けてやる。反応しない堅人に構うことなく。
「こいつのこと暫く頼むよ、玲子ちゃん。この家から出さないようにな。何かあったら連絡して」
「えっ、ちょっと、説明してくれないの、興甫くん!?」
「説明なんて聞いても聞かなくても、君は堅人を助けるんだろ?」
じゃあ宜しく、とだけ言い残して、鞍木は立ち去った。
結架を見舞いたいが、彼女は自分を拒絶するかもしれない。鞍木の姿を見れば堅人を思い出してしまう。彼にされた仕打ちも。それは耐え難いだろう。
家族のように育ったのに。
やりきれない無力感に苛まれ、降り続ける雨のなかを歩き続ける。雷は遠ざかった。しかし、陽光も雨雲の彼方にある。
そういえば、と、無益なことを思った。
堅人の部屋が煌々と電灯を灯していなかったのは、初めてのことだったな、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます