第10場 熟れていく愛を救いとして(1)

 集一が鞍木に連絡して結架が目を覚ましたことを伝えると、彼は電話口で涙ぐんだ。

 ずっと集一に連絡したかったが、今の結架にとって自分は顔を見るのさえ苦痛である可能性が高いと思っていたので、身動きがとれなかったのだという。逡巡し、悩み抜いた末に、呼ばれることがなければ遠慮していようと決めていた。それでも、出来ることなら直ぐに会いに来たい、結架が会ってくれるなら。そう、声を詰まらせながら鞍木は言った。それを有り難く思いながら病室に戻ると。ブラインド越しに窓から入る柔らかな陽光を浴びて。結架は安らかな表情をして穏やかな寝息をたてていた。

 苦痛からも悲嘆からも解放されている、あどけなく無防備な寝顔だった。初めて隣で眠った、あの夜と同じ純真な顔容。見ていると、きつく胸が締め付けられる。甘く、それでいて苦く。今にも息の根を止められそうなほどに。そうして果断なく進むことを赦さない。もう一瞬たりとも惑ってはならないと気づかされた。

 天使を救う騎士ならば。

 願うべきは力尽きぬこと。

 敗北を避けられるまで。

 勝利を確定とするまで。

 決して諦めず、心を曲げず、揺るがずに。

「ありがとうございます、お母さん」

 囁くと、弦子は微笑みながら頷いた。

 そうして、結架を起こさぬよう緩やかな動きで移動して、寝台から少し離れたテーブルセットに向かい合って座り。ひそひそ声で会話を始める。

「鞍木さんが来てくれるそうです。結架が目を覚ましたら、会うかどうか訊いてみます」

「そう。なら、今のうちに朝食を済ませてしまったほうがいいわね」

 そう言うが早いか、テーブル上にランチョンマットを広げ、バスケットから保温容器を取り出し、音を立てないよう並べる。白飯と味噌汁。いんげん豆の胡麻和えと、赤魚の塩麹焼き、卵焼きに白菜の浅漬け、南瓜の甘煮が詰められていた。朝から、かなりの量だ。日に日に品数も総量も増えていっていて、集一は困り顔ながらも笑ってしまった。結架が目覚めて食べられるようにと願って、そうしたのだと思えて。

 とはいえ、彼女が平素のように元気であれば、これでも足りないくらいだが。

「結架と何を話したんですか」

 半分ほどを胃に収めて朝食を終え、挨拶と礼を述べてから尋ねると。

「私たちと養子縁組をして家族になりましょうと お願いしたわ」

 紙コップから緑茶を飲みつつ平然と答えた母に絶句する。

「──はい?」

 残った料理の容器や使った割り箸などを片付ける手を止めて問い返してしまったが、当然だろう。

 あまりにも突飛で。

 しかし、弦子は感情を抑えた低く平坦な声で、続けて驚きの内容を語った。その表情も静まっていて、どちらかといえば陰が濃い。

「貴方と結婚できないと思いつめていて、可哀想で仕方なくて。どのみち、将来的にはそう出来たら良いと、以前から誠一さんと話していたのよ。それが早まるだけですからね。何の問題もないわ」

 父親が同意していると知って、集一は困惑しきる。

 一体どうして、そんなに簡単に結架との結婚を容認し、あまつさえ養子縁組まで前向きに考えているのか。これまでの父の言動からは理解できない。ほんの数年前には、バーゼル音楽院に進む代わりに良家の子女との婚約を強いようとしてきた人間が、一体どうしたことか。それに、トリノで会ったときは、集一の結婚相手は選別中だと発言していたが。母の言う以前からとは、一体、何時いつからなのか。

 不快を隠さない集一の怪訝気な視線をものともせず、弦子は続ける。

「とりあえず、退院後に結架さんが安心して生活できる場所を用意しなくてはね。私としては我が家で暮らして貰えると嬉しいけれど、いきなり同居するのも負担でしょうから、貴方たちで お決めなさい」

 集一は、自分の顔が強張るのを止められなかった。眉間にも口角にも力が入ってしまう。

「……反対しないんですね。僕が結架と結婚することを」

「何を理由に反対すると云うの?」

 集一は唇を噛んで黙り込んだ。簡単に口に出せる話題ではない。言葉にしたくもない。しかし、これから どうするのかは大切なことで、避け続けても結果的には望ましくないことになるだろう、恐らくは。それならば、対処は早いに限る。不安の芽を摘むのも。

 長い沈黙の後に考えをまとめ、腹を括った集一は答える。

「多分……結架は……純潔を奪われたのだと思うんです」

「だから?」

「だから……」

 思わず言い澱む。

 冷然とした母の言葉が胸を突き刺す。

「結婚しても夫婦生活が望めなくて後継者こどもが生まれないだろうとでも?」

 表情が歪むのが自分でも分かった。

 それを肯定することを拒否したくて堪らない。

 しかし、母は取るに足らないことだとばかりに、

「貴方にとって それが大切なことなら仕方がないわね」

軽く言い捨てた。

 その冷静さが癇に触る。

「僕は、自分が後継者の座を拒んでいるのに、自分の子を そこに宛がおうとは思いません。ですから、僕らに子どもが生まれなくても構わない」

 声量を抑えつつ強い語調で応えた。

 息子の怒りを理解した母に温かな笑みが戻る。

「それなら私が反対する理由は何もないわ」

 その声にも温もりが戻っていた。

 そして、集一が不安を訴える前に付け加える。

「誠一さんが口を出すこともありませんから、心配しないで。きちんと釘は刺してありますから」

「え……?」

 

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