第9場 母の慈愛と懇願が導き照らす行く先に

 集一が応答すると、現れたのはバスケットを抱えた弦子だった。

 息子から寝台の結架に視線が移り、彼女が目を覚ましていると気づいた途端、笑顔を輝かせる。

「まあ……! 目を覚ましてくれたのね」

 嬉しげに声を弾ませて、足早に部屋に入ってきた。しかし、その寸歩の間に結架の様子を目敏く察知した彼女は、一瞬にして穏やかな微笑へと表情を変えた。

「集一さん。鞍木さんに結架さんが目覚めたと お報せしたの?」

「いえ、まだですが」

「それはいけないわ。直ぐに電話していらっしゃい。結架さんには私が付き添っていますから」

「それは、でも」

「結架さんにとっても、貴方にとっても頼れる方なのでしょう。粗略にしてはいけませんよ。さ、お行きなさい」

 弦子が『兄』という単語を避けたことに、集一は気がついた。彼が姿を消していることは伝えていたものの、今回のことは、起きた事実しか説明していない。だというのに、どうやってだか、彼女は 大凡おおよその見当をつけている。もっと詳しく状況を知っていた集一と同程度に。それでも結架を見る瞳にある感情は、これまでと変わりない。ならばと母に託すことにする。

「分かりました。結架、出来るだけ早く戻るよ」

「はい。ありがとう」

 そうして集一が、電話を許されている区画まで出掛けていくと。

 弦子がバスケットをテーブルの上に置いて、起き上がろうとした結架を手で制しながら近づいてきた。

 先ほどまで集一が座っていた椅子に腰掛ける。

「ごめんなさい、弦子さま。わたし……」

 慈母の如く思いやりに満ちた微笑みを保ったまま、彼女は結架の髪を撫でた。愛おしげに、そっと、嵐に怯える小さな女の子を慰め、宥めるように。

「──つらい目に遭ったわね、結架さん」

 知られているのだと理解した結架は青褪めた。だが、弦子の手つきは、限りなく優しい。

「説明はしなくても大丈夫よ。心配しないで。私たちは、大まかな出来事の経緯しか聞いていないわ。ただ、これほど貴女が悲しい行動に出たということは、それだけのことがあったのでしょう。集一さんがついていながら、情けなくも申し訳ないと思っているのよ」

 結架の瞳が揺れ震える。

「いいえ! そのようなことはありません。毎日、会いにきてくれていましたし、緊急通報装置だって用意してくれて……。でも、弦子さま。私、私はもう、皆さまに迎えてもらうに相応しくありません」

 耳を傾けていながらも、結架を撫でる弦子の手は止まらない。

 予期していた言葉を受け止めているかのように、泰然としている。

「それは、集一さんと結婚できないということかしら」

「はい」

「まあ。困ったわ」

 朗らかな調子で応える彼女に動揺はない。結架のほうが余程、狼狽えていた。

 静かな沈黙が流れる。

 その間も、弦子は結架を撫でつづけた。愛情豊かな眼差しをして。

 ややあってから、彼女は表情を変えることなく、重大発言を炸裂させた。

「ねえ、結架さん。貴女が集一さんと結婚するのがどうしても受け入れがたいのなら、私と養子縁組をしてくれないかしら。どんな形でもいいから私たちの家族になって欲しいの。貴女が大好きで、他の誰にも代えられないほど大切だから、どうしても、そうしたいのよ」

「弦子さま……!?」

 瞠目して大きな声を出した結架に、弦子が笑みを深くする。

「お願いよ。また、お母さまと呼んで頂戴、結架さん。私の可愛い娘。大事な子。貴女を、もう絶対に誰にも傷つけさせたくないのよ。貴女の居場所は何処であろうと私たちが守るけれど、の許には戻さないわ。絶対に」

「でも……」

 詳細を確かめることなく、そこまで話を進めようとする弦子に、周章狼狽してしまう。

 だが、彼女は明るく言った。

「集一の父親、私の夫も同意しているわ。貴女が集一と結婚してくれたとしても、そうできないとしても、私たちは貴女を娘として支えていきたいの」

「私には、そこまでしていただける価値なんてありません」

 するりと弦子の手が動いて、結架の髪から頬へ撫で下ろす。泣き出しそうな結架の涙を押しとどめようとして。

「それは私たちが評することよ。貴女が どれだけ自分自身を卑下しても、私たちには尊びたい存在なの。それとも、貴女は榊原家へ入るのが、どうしても嫌かしら?」

「いいえ……っ、いいえ! そんなこと、有り得ません。だって私は結婚したかった。求婚プロポーズして貰えて、迚も、本当に迚も嬉しかったのですもの……!」

「それなら、何も恐れなくていいのよ。貴女の心から望む道を選べばいいわ。ただ、どうか、その道を進むのに私たちを伴って頂戴」

 ──貴女を独りにはしない。

 そう断言した弦子が、本当に母親として見えた。

 落涙するのを止められない結架の頬に手巾ハンカチをあて、穏和な声が囁く。

「安心して、そろそろ お眠りなさい。熱が上がってきてしまったわ。無理をしては駄目よ。大丈夫。傍にいますから」

 何もかも承知の上で受け容れ、許す。

 大切に慈しまれ、尊ばれる。

 その幸福を与えられることに縋ってしまう。そうして手を離せなくなる。

 しかし、撫でてくる手のひらの柔らかさと優しさに自然と恐れは薄らぎ、心が凪いだ。

 重たくなった瞼に従う。

「おやすみ、私の可愛い子」

 愛おしんでくれる声に無意識に応えた。

「はい、おかあさま……」


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