第8場 あなたに私を留めるのなら

 救急病院に到着するとすぐ、集一は結架に血液を提供し始めた。矢張り彼女は大量に失血しており、息があるのが不思議だと言われてしまったほどに危険な状態だった。

 報せを聞いて駆けつけた弦子も、血液型が合う榊原家の使用人たちも、輸血のために献血を申し出た。そのお陰もあって手術も無事に終わり、容態は安定に向かっていた。

 ぎりぎりまで多くの血液を結架に与えた為に貧血状態となった集一だったが、彼女の病室から決して離れようとせず、榊原家と二代前から親交のある病院長の寛容な一言で、簡易ベッドが運び入れられた。

 それから二日間。高熱が続く結架は目を覚まさない。

 貧血状態から脱していたものの、集一は病院長と看護師長、事務長らの同情を得ることに成功し、そのまま結架の病室に留まっていた。片時も その枕元から離れようとしない集一に、生来の息子の冷淡さを知る弦子が感銘を受け、毎朝、その日一日分の食事を届けてくれている。支える人間が弱ってはならないと滋養のある食材を多く揃えてあり、そうと理解した集一も残さず平らげた。

 そうして三日目の早朝。

 まだ熱は下がっていなかったが、大分だいぶ血色の良くなった頬を撫で、少し乾燥した唇に親指で触れたとき。

 長い睫毛が震えた。

 息を呑み、立ち上がる。細い手を捕まえ、両手で握った。

「結架……!」

 叫びそうになるのを堪え、抑えた声量で呼びかける。

 深く息を吸う気配とともに、目蓋が開かれた。

 みどりを帯びて艶めく明るい茶色の瞳。

 どれだけ、このに映りたいと願ったか。

 そして、もう一度。否、何度でも。

「しゅ……う……いち」

「結架」

 合わせた手のひらを持ち上げ、自らの頬にあてる。

「ありがとう、目覚めてくれて」

 ぎゅっと目を閉じ、その白く滑らかな手の甲に唇を寄せる。

 言葉を押し出そうとした結架が咳き込んだので、集一は素早くコップを手に取った。何も考えずに水を口に含み、点滴の管に注意しながら慎重に抱き起こした結架の頭を支える。

 驚いたらしい結架が思わず開いた唇の内に、その水を少しずつ流して分け与えていった。

 こくりと咽喉が鳴って飲み下したのが分かっても、すぐには離れない。口唇を弱く撫で合わせるように触れ、愛情を伝える意図のもと、ゆっくりと、殊更に緩慢に優しく求めてから、至近距離を保つ。

 蜜を口移しで与えられた雛鳥のように絶対的な守護を得ているというのに、結架の心に安寧はない。

「──集一、わたし」

「愛しているよ、結架」

 何を言おうとしたのか知る前に、それだけは伝えたかった。ありったけの真心をこめて告げる。

「今も、これからも、ずっと、いつまででも」

 苦しげに表情を歪めた結架を、そっと横たえる。額と指に何度か口づけてから、

「まずは診察してもらおう。話は、その後で、ゆっくり出来るから」

優しい口調を心がけつつ、異論は認めないと眼差しで伝える。諦念を絡ませた苦患が吐息の中に震え出た。

 ナースステーションにのみ通じる電話で状況を伝える。すぐに看護師が体温計や血圧計などの機器を運んできた。それらで計測している間に医師も到着し、一頻り細かい問診や触診をすると、ひとまずは安心して良いだろうと診断され、漸く集一は鞍木を思い出した。だが、病室で携帯電話は使えない。かといって、目を覚ました結架から離れたくはない。

 どうしようかと思案していると、か細い声がした。

「あの……集一……」

「うん」

 やわらかい表情と声を心がけながら目を向けると。

 結架の凄絶なほどの苦悶に直面した。その冷厳さが彼女自身を消し滅ぼそうと苛むまでに激しいものに思えてしまい、一瞬、怯みそうになる。

 枕元に座り、手を伸ばした。

 隠しきれない痛みに耐える表情を和らげたくて、指先で髪を梳くようにして彼女のこめかみを撫でる。

 悲嘆の涙で潤んだ瞳を真っ直ぐに向けてくる結架は、それでも矢張り迚も美しく澄みきっていて、どうしようもなく集一の胸を衝く。

「ごめんなさい」

 こんなことになってしまって。

 それは、集一こそ、言うべき言葉だと思えた。

 どうするのが正しかったのか。

 ずっと考えていたが、結架に責は一切ないのだ。

「謝らなければならないのは僕だよ、結架」

 ポケットに入れていたものを取り出す。

 血を流して倒れていた結架が握っていたものを。

「これを渡せば安心だと油断した僕の咎だ。何があったにせよ、きみには何も落ち度はない。きみから僕が離れなければ防げたことだ」

 緊急通報装置は叩き壊されていたものの、重要な電線は切れていなかった。そのおかげで、位置情報は検知することが出来たが。

 通報自体は、したくとも不可能だった。

「本当に、ごめん。きみを守ると誓ったのに」

 虚ろだった瞳に涙と光が浮かぶ。

「ちがう。私が事態を見誤ったせいだわ。何度も兄の気配はあったのに、気のせいだと思おうとした。居る筈がないって決めつけた。怖かったの。お兄さまが私を傷つけようとするなんてことを想像するのが」

 一筋ひとすじが流れると、もう、止まらない。

「結架……」

 近くに畳んであったタオルを濡れた頬にあてる。次々と流れる涙が吸い込まれていくさまを、黙って見つめるしかない。抱きしめてしまいたかったが、傷が塞がりきっていないだろうに、そんな真似は出来なかった。

 そして。

 実際のところは、どのようなことが起きたのか。

 訊きたい気持ちと聞きたくない気持ちがせめぎ合う。仮定のままであるのと、確定してしまうのでは、どうしたって打撃が違ってしまう。

 信じたくはない。

 否定して欲しい。

 堅人が。

 結架を──集一の大切な唯一にして最愛の女性を──強淫ごういんしたなどと。

 違っていてくれと願わずにはいられない。

 けれど。

 結架が自らを殺そうとした理由が。

 結架を探しに二階へ上がった鞍木が戻ってきたとき、激しい怒りに震えて、「おれから言えることはない」と言いきった理由が。

 他にあるとは、思えなかった。

 永い時間が終わらないように感じられたころ。

 扉を叩く音がした。

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