第7場 悪夢の森

 薄暗く、けぶる雨の中に建つ折橋邸は、これまでにない陰鬱とした雰囲気を纏っている。その威容に、前日には無かった不穏を感じた。

 何故か、心臓の鼓動が速まっている。

 目覚めたときから妙に胸騒ぎがして、まだ七時を回ったばかりだというのに、来てしまった。流石に朝早くに電話をするのは躊躇われて、暫く路上駐車した車の中で様子を窺おうと思っていたが。数分も経たずに不安が勝り、車外に出た。早朝の用事が早く終わったのだと説明すれば、結架は喜ぶことはあっても、機嫌を損ねることはしない。

 そう判断し、門扉にある呼び鈴を鳴らそうとしたとき。

 携帯電話がポケットの中で鳴動し始めた。

 画面で誰からかを確かめ、すぐに通話ボタンを押して出る。

「はい。鞍木さん?」

「集一くん、いま何処だ」

「結架の家の、門前です」

「ちょうどいい。そろそろ、おれも着く」

 短い会話だけで通話が切れた。電話の向こうの彼の雰囲気が切迫していたことに、思わず顔を顰める。

 そのとき、門扉が開けられた。

「相馬さん。おはようございます」

 傘を差した千里の顔色が悪い。彼女は、手に封筒を持っていた。

「おはようございます、榊原さま。実は、先ほど起きたときに、これが。でも、気配がなくて」

 相馬一家の住む別棟は裏門に面している。そこに設置している郵便受けに投函されていたのだという。封筒には切手は貼られていない。そして、見覚えのある筆跡で『榊原 集一 様』と、書かれていた。

 受け取ったそれに封はされていない。

 中には、紙片が入っていた。

『あなたの幸せを願っています。永遠の感謝と愛をこめて。結架』

 慈しみに満ちた文章だというのに、全身が緊張した。顔の筋肉も強張る。

「相馬さん、玄関を開けてください」

 千里は無言で頷き、ポーチへと駆け寄った。

 しかし、彼女は驚きの表情を浮かべた。

「鍵、掛かっていません」

 開かれた扉の向こうが、まるで幽霊屋敷のように見えた。

 澱んだ空気。

 照明がついておらず、人の気配がないだけだというのに。

 不吉な予感が高まる。

「結架!」

 声を張り上げて呼んだ。彼女の聴覚なら、あるいはと思いながら。

「集一くん」

 もう一度と息を吸ったとき、肩を叩かれた。

「鞍木さん」

 彼の顔色も相当に悪い。

「昨日、結架くんに緊急通報装置を渡すと言っていただろう。使われた形跡は?」

 集一は息を呑む。

「ありません。使っていれば、僕にも通知がありますが、何も」

 鞍木の表情に悲壮が浮かぶ。

 彼は、靴を脱ぎながら言った。

「様子を見てくる。この感じなら結架くんは中には居ないだろうが、何か手がかりがあるかもしれない」

 そのとき集一は、自分の迂闊さを思い出して舌打ちした。

「鞍木さん。あの装置には、位置情報を追跡できる機能が付いています。結架が持っていてくれれば何処にいるのか分かりますから、調べるよう通達します」

「……頼む。念の為、おれは階上うえを見てくるよ」

 しかし、集一は、あまりそれを聞いていなかった。すぐさま携帯電話で警備部門に連絡をする。

真谷まみやさん。僕の現在位置と、昨日から運用してる装置との距離は?」

 挨拶も何もなく問うが、相手は当然のように即座に答えを返してきた。

「北西に三キロほどです。動きはありません」

 あまり離れていないことに安堵する。

 しかし、動いていないとは、どういうことか。

 不可解に思っていると、大きな音が響いた。何か落ちたか、ぶつかったかしたような。驚きに身構えたが、ほどなくして鞍木が駆けてきたので、警戒を解く。

「集一くん! 結架くんの居場所は!?」

 凄まじい剣幕だった。

「ここから北西に三キロ離れた場所だそうです」

「ここから三キロ? 宅地造成が進められてる区域か……いや、まだ森林部分だな……よし、行くぞ。急げ」

「どういうことですか」

「おれから言えることはない」

 両眼に浮かんだ激しい怒りは集一を飛び越えている。

「千里さん。今日は理英さんから目を離さないように。出来れば、うちに三人とも行ってください。別棟に母が迎えに来ます」

 依頼の形で言いつつも手配は済んでいると鞍木が告げると、諦念を滲ませた表情で彼女は頷いた。

「ありがとうございます、興甫ぼっちゃま」

 すぐに鞍木は靴を履く。そして、集一を促した。

「行こう。この家の中に装置がないなら、絶対に結架くんが持っている」

 赤黒くなった顔で鞍木は断言した。

 彼の焦りと後悔が、集一の内にも暴れている。

 二人は雨の中、傘も差さずに全力疾走した。

 造成地を進み、まだ木々が残る場所へと到る。

「……鞍木さん!」

 集一が不意に止まって、指差した。

 生い茂る木々が途切れた場所。

 細いが道のように見える。

 距離的にも、そろそろ近い。

 二人ともが直感的に結架の存在を感じた。

 会話は省き、揃って獣道のようなその道を駆ける。濡れた草や落ち葉、泥濘ぬかるみ、木の根に足をとられそうになるが、逸る気は速度を落とせない。横枝を払いながら進む。

 やがて、開けた場所。

 墜ちた天使が倒れていた。

「結架!」

 疾走する集一が速度を上げて、横たわる細い身体に腕を伸ばす。抱き起こして頬の泥を拭った手が、腹部に突き立ったペティナイフを見て硬直した。流れた血が浸みて、雨に広げられ流されている。どれだけの量の血液を失っているのか、推測できない。

 だが、まだ、小鳥のような その身体は震えていた。

「結架……っ!」

「救急車を呼ぶ」

 鞍木が携帯電話を取り出し、舌打ちした。圏外だったのだ。既に集一の持つ通報装置を使用しているため応援の警備員は向かっている。だが、連絡を取らなければ。一刻も早く病院に搬送しなければならないのだから。鞍木はアンテナが表示される場所まで戻ることにした。

 残された集一は、結架の肩を抱いた。細い、柔らかな身体。雨に打たれて冷えきった。そうと知って、自分の身体も冷たく凍る。

「だめだ結架……こんなのは……」

 絶望に踏みにじられ、心が切り裂かれる。

 どうして。

 一体、何があったのか。

 自分が帰らなければ。傍にいれば良かったのか。

 頭の中を、ぐるぐると巡る、その思考の全てが、自分自身を責める。

 結架の手の中に、割れた七宝焼が握られているのが見えて、視界が歪んだ。

「結架おねがいだ。僕から離れないでくれ」

 冷たい頬に額を寄せる。

「結架」

 柔らかく長い睫毛が震えるのが見えた。

「……シュー」

「結架!」

 焦点を結ばない、みどりをおびた茶色の瞳。

「……かみさまは……おむかえの天使を……あなたの姿になさったの……?」

 掠れた声がこがらしのようで、弱々しい。

「わたしには……過ぎた……祝福ね」

「結架、僕だ。僕を見てくれ」

 数秒間、彼女は答えなかった。

「結架。神だろうと天使だろうと、僕から きみを奪わせない。絶対に離さない。きみを迎えになんて来させやしない」

 強い語調で訴えかけているうちに、芒洋ぼんやりと幻影を視ているようだった瞳の中に、知悉している聡敏がともる。彼女は苦しげに微笑わらった。

「……でも、もう、まえの私じゃ……なくなっちゃったわ」

「どんな きみだろうと僕には必要なんだ……!」

 魂から絞り出した言葉は、あまりにも切実で。

 事実を伏せたまま消え去ろうとした結架にも、残酷なほど屈辱的であっても、隠し通せないと思わせた。

「わたし……兄に……」

 結架は言い澱んだ。

 しかし。

 集一には分かった。理解できてしまった。結架が自身の肉体を脱ぎ捨てようとした、その原因が何であるかを。

 だとしても、結架そのものを失うなど、決して受け入れられない。

「結架。何があったとしても僕の気持ちは変わらない。愛してる。きみとともに生きていきたい。傍にいさせてくれ、お願いだ」

「こんな私が……あなたの傍にいては……だめ……つらいの……」

「なら、僕も連れていけ」

 初めて集一は苛烈な瞳を結架に向けた。

「きみが自ら死ぬのなら、結果的に僕も殺すことになる」

「いや……っ」

 透明な雫が、みるみる膨らんで、流れ落ちた。

「すまない。でも、きみを失えないんだ、結架。どうしても」

 サイレンの音と、大勢の足音が聞こえてくる。

 集一は、彼女の涙に唇を寄せ、囁いた。

「きみだけを愛しているから」

 痛切な声に、結架は、抗うのを止めた。

 その言葉の奥から、悲しみも苦しみも聴こえたからだった。どうなっても、求めずにいられなかった。結架も集一だけを愛していたから。

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