第4場 懺悔するは、無自覚な告発人
昨夜から続いている冷たい雨が窓ガラスを叩いている。それを横目に、上階の事務室に向かうべく、階段に足を踏み出した。
「興甫くん」
呼ばれて振り向くと、常日頃は強気な光を宿している切れ長の目が、弱々しげな眼差しで見上げている。時差のある海外とのやりとりも珍しくないので、早朝に社内にいても、勤務中であることも多い。ただ、事務員に過ぎない彼女が、この時間に出勤していることは稀だ。
「玲子ちゃん、どうした?」
いつ会っても自信に満ちた表情で背を伸ばしているのに、呼び掛けると黙り込み、目を伏せた。切り揃えた黒髪が垂れる。誰かを呼び止めておいて、このような態度を取る人物ではない。本来は。
心配になり、
「……堅人さんから連絡はあった?」
「いや、ないよ。君、何か知ってる?」
瞳が揺れる。
「私、結架さんに謝らなきゃいけない」
切迫感で強張った声と思いがけない言葉に面食らった。
「は?」
少し上向きの
肩を震わせて声もなく落涙する彼女に、鞍木は言葉が見つからない。取り敢えず、ここでは人目につくだろうと、打ち合わせ用の小さな会議室へと連れて行った。
幸いにも空いていた、その部屋で、六人掛けのテーブルセットに向き合って座る。途中で購入した缶コーヒーの片方を差し出すと、彼女は小さな声で礼を言って、両掌で左右から缶を包んだ。手を温めるように。
やがて開封し、一口、二口と、それを飲んでから。
「……興甫くんに携帯電話を渡しに、私、トリーノに行ったでしょう。あれはね、社長からというより、堅人さんから言われてのことなの」
告げられた言葉に、鞍木は拍子抜けする。
確かに社長である父から携帯電話を持たせるという連絡は来たが、タイミングとしても、堅人の意向であることは明白だった。
「予想はしてたよ」
「そのとき結架さんにって渡したチョコレートに、私、催眠剤を入れたわ」
驚きのあまり立ち上がる。
「──は!?」
「催眠剤というか、睡眠導入剤というか。持続性のある薬よ。人によっては強い眠気だけでなく、倦怠感とか頭痛が出るわ。抗鬱の効果もあって、酒精に酔った感じになることも考えられるけど」
「なんてことを、なんだって」
額に手を当てた。
だが、驚くのは、まだ早かった。
「それから、トリーノに行ったのは、それが初めてじゃない」
「え?」
「結架さんがトリーノの酒場でピアノを弾いたとき、ショパンのワルツをリクエストしたのは、私よ」
「は……ぁ!?」
「リクエスト自体は私の独断。でも、トリーノで暫く結架さんを見張ってた。堅人さんに頼まれて」
つまり、彼は親友である自分を全く信じていなかったということだ。だから今も連絡が無いのかもしれない。
鞍木の胸に怒りが芽吹く。
「私、何度か日本とイタリアを行き来して、結架さんに起きたことを、都度、彼に報告していたの」
──と、いうことは。
帰国してから結架が堅人に集一の存在を告げたとき。
既に彼は、結架に恋人ができたことを知っていた。
愕然とする。
「じゃあ、集一くんのことも、堅人は」
「知ってるわ。御曹司だから手の出しようがなくて、苛立ってた。鉄壁の防御って、ああいうのをいうのね」
目が眩む。呼吸が浅くなるのが自分でも分かった。
「いや、でも、あいつは」
イタリアから帰国して結架と ともに会ったとき。
何も言わなかった。
そして。
それから……。
混乱しつつも情報を整理しようとしていると、玲子が大きく息を吐き出した。
「腹いせに渡したチョコレートで結架さんが体調を崩せば、私の気が済むってだけのつもりだったの。演奏会本番までの日程にも少し余裕があったから、大問題にはならないだろうと予測してたわ。それが、まさか、榊原さんの部屋に泊まることになるなんて。完全に想定外だった。堅人さんに伝えるべきか迷ったけれど、私も諦めが悪いから。でも、堅人さん、怒り狂ったわ。当然ね」
鞍木は沈黙する。
玲子が以前から堅人に熱烈な視線を向けていることには気がついていた。結架へ嫉妬しているのも。だから、いつまでも妹に固執するなと諭すつもりもあったのだろう。
折橋兄妹のマネージャーは鞍木だが、そのサポートは玲子が担っている。出発前にヴェローナやトリーノの資料を揃えてくれたのも事務員である彼女だ。カヴァルリ家での演奏会に使用した楽譜も、一部はデータを送ってくれた。
イタリアに語学留学経験もあることから、当初、結架に付き添う役目を玲子にすべきと社内では意見が出ていた。それを退け、鞍木を指名したのは堅人だった。
「……じゃあ、堅人は最初から、トリノでの仕事に随伴する役目を おれに、おれと結架くんを見張る役目を君に振ったのか」
玲子は冷然と頷く。
「そうよ」
「あいつ、おれを信じてなかったわけか」
自嘲したが、それには玲子は首を横に振った。
「興甫くんは結架さんも大切にしているでしょ。それを信じているから付き添ってもらったの。守る力は女性である私よりも、あなたのほうが大きいから」
「どちらにせよ、堅人に利用されたな。おれも、君も」
残っていた缶コーヒーの中身を飲み干す。
「でも、彼の望みは叶わない。私たちを利用しても、目論みは成功しない。だって、結架さんと榊原さん、うまくいっているのでしょう」
「毎日、逢うほどには」
昨日、結架が電話に出ないと焦って連絡してきた集一の声を思い出し、忍び笑う。誰も彼も結架には過保護だが、彼ほど手段を選ばない人間は、それこそ堅人くらいのものだ。そういう意味では、二人は拮抗している。
玲子も缶コーヒーを空にした。
「……何処にいるのかしら。彼が大人しく姿を消したままでいるわけないのに。この静けさが不気味で仕方ないわ」
それに返答する言葉もない。
鞍木も、全く同じように思えるからだ。
「そういえば、トリノの王立劇場のホームページに結架くんが酒場でピアノ演奏をしたって暴露記事を載せたのも、君なのか?」
思いついて訊いてみる。
しかし、彼女は怪訝そうに表情を歪めた。
「暴露記事?」
答え合わせするつもりでしかなかった鞍木の胸に、不快な疑問が渦巻いた。
「知らないのか」
「王立劇場のホームページなら、不正な干渉は難しいと思うけど」
鞍木は思考に沈む。
しかし、玲子は気に留めなかった。
「とにかく、私のせいで結架さんには心労が溜まったと思うの。堅人さんが帰ってきたら、一緒に謝るよう彼を説得したいから、興甫くんにも協力してもらえない?」
「それは協力するが」
──何だろう。
唐突に酷い胸騒ぎを覚えた。
虫の知らせというのか。
天が割れて砕け散り、落ちてくるとでも思えるような。
すぐにでも、結架の声を聞かなければいけない。
そんな気がした。
「興甫くん、大丈夫? 顔色が悪いわ」
「ああ……」
返事も適当に、携帯電話を取り出す。通話履歴から番号を呼び出して掛けた。だが、呼び出し音さえ聞こえない。
不安が。
頂点に達した。
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