第3場 幸福の視る夢は未来へと続く理想

 愉しい時間は過ぎていくのが本当に速い。

 集一の作ったオニオン・クリームスープ、豆腐と生ハムのサラダ、オーブンレンジで発酵時間を短縮したクランペットを味わってから。楽譜庫や音楽堂に行って、収蔵されている楽譜や資料、楽器にまつわる話をしたりチェンバロを弾いたりしていると、あっという間に日が暮れてしまった。

「客間を用意してくるわ」

 陽が傾いているのに気づいた結架が立ち上がったが、集一は内心では周章あわてて止めた。咄嗟に思いついた方便を告げる。

「ああ、明日の朝はやくに鳥渡ちょっとした用事があって。だから、もうそろそろ辞去しつれいするよ」

 すると、結架は目に見えて落胆した。

 肩を落とし、

「そうなの……」

寂しげな表情をする。

 だが、流石に家主けんとが不在で了解も得ぬままに泊まるわけにはいかない。

 再びソファに並んで座る。亜麻色の髪が肩から流れるのを白い手が止めて、背のほうへと優雅な動きで払った。その仕草が、匂いたつほどに美しい。

「本当は、また同じベッドで一緒に眠れたらいいのにと思っていたのだけど」

 ぽつりと呟いた結架の声だったが、静かな室内には、よく響いた。集一の鼓動が跳ねる。家鳴りのような軋んだ音が聞こえた気がしたが、動揺で耳の奥が熱くなっており、そのせいにも思えた。

「結架……」

 思わず手をとって、懇願する。

「僕だけしか居ないからいいけど……いや、あんまり良くはないんだけど……段々きみがマルガリータに似てきたような気がするよ。お願いだから、そういうことは、他の人の耳には入れないでくれるね」

 真剣な眼差しで言われた結架は、無垢な光を宿した瞳のままで頷いた。

「ええ、それは勿論、あなただから言うのよ」

 集一の心中を知らず、無防備な結架の言葉は、ただ本音を剥き出しにしている。実際のところ、彼女の希望している想いは、集一も同じく抱いているものだ。喜びを隠せなくて当然だった。

「──じゃあ、近いうちに、そうしよう」

明日あすにでも?」

 間髪いれずに繰り出された問いかけの快活さと明朗さに、思わず笑いがこぼれる。

 すると、彼女は珍しく、視線を斜め下方に傾けて。

「本当は離れたくないのだもの」

 拗ねたようにも聞こえる声色で、呟いた。

 両腕を広げ、愛しい恋人を胸に閉じこめる。

「僕もだよ」

 背中に手がまわされて、細い腕が抱き返してきた。

 少女のように華奢で果敢なげな腕。

 それなのに、想像するよりも、しっかりとした力だった。アレティーノの店でベートーヴェンの『月光』ソナタや、リストの超絶技巧練習曲『マゼッパ』を弾ききったときの強さを思い出す。それまでに聴いていたチェンバロの流麗で繊細な響きとは違った、ピアノの絢爛さを。彼女自身が持つ典雅で優美な音は共通していたが。

 身を乗り出してきた結架が、まるで集一がソファから離れるのを阻止するように、身を預けてきた。決して重いとは思わない彼女の体重だが、押し返すことなど出来はしない。天蓋のように艶やかな髪が顔の横に流れてきて、トリノの王立劇場大ホールの天井が想起される。オーロラのようにも、花火が広がるようにも見えた、美しく輝くシャンデリア。そこで得た、忘れがたい音楽の快楽に、愉悦。

 願っているのは、ただひとつ。

 すぐそばで、この人生を生きること。

 頬に触れた口唇の柔らかさと熱に、身体の奥から、火柱を上げるかのような衝動が突き上げる。自分自身ですら空恐ろしくなるほどの情欲だった。その想いの欲するまま重ね合わせた唇の内に、蜜の如く甘い露が満ちる。清楚でありつつも艶めいた、馥郁とした香気を纏った結架の心も身体も、ただ自分だけが占めていたかった。

 熱い愛慕に我を忘れそうになる。

 集一は、理性が残っている自分の育った家庭環境に、初めて心底から感謝した。

 触れ合う体温が心地よく、頬や首筋に触れる柔らかな手のひらと指が吸いつくようだ。呼吸を乱した結架の咽喉のどが時折に放つ、苦しげな吐息に含まれた官能的な声が、その理性さえ大きく揺さぶってくる。

「……もう、本当に、帰らないと」

 掠れた声で囁いた。

「……ええ、そうね」

 哀切で沈んだ声。

 耳元で微風がそよぐ。

 可憐な花弁を震わす ため息を、さらに飲み込んだ。

「明日、また来てもいいかな」

「いいに決まってるわ」

 即答だった。輝いた瞳が眩い。

 艶めく頬を撫でる。

「それと、母から連絡があって。明後日の昼食に、きみを招きたいって。漸く父を捕まえたそうだよ。きみを紹介したいんだけど、会ってくれるかい」

「ええ、勿論よ。嬉しいわ。夢みたい」

「あの父に会うのは悪夢みたいなものだけどね」

 くすりと笑った結架の指が、集一の口唇をなぞった。

「私には嬉しい夢よ。あなたのご両親に会えるのだもの。それに、そんな憎まれ口を仰有るけれど、あなたが、お父さまを尊敬してらっしゃるのは解ってるわ」

 憮然としてしまうが、結架の微笑みは揺るがない。

「……まあ、ある意味ではね。あれだけの規模の経営を維持している手腕は認めざるを得ないから」

「そうね。その繊細な才覚は、あなたには演奏家の技術として伝わっているのかもしれないわ」

 そんなことを言ったのは、結架が初めてだった。他者に言われたら不快に思ったかもしれない。父に似ているなど。考えるのも厭だった。だというのに、不思議なものだ。結架の言葉には祝福さえ感じる。

 嬉しげな笑みを浮かべたまま、結架が身を起こす。

 離れていく、あたたかで柔らかな身体に未練が募るが、これからいずれ、夜毎に肌を合わせることになるのだと思えば、充分な慰めとなる。

 玄関で靴を履き、集一が振り向いた。

「じゃあ、また明日」

「はい。待ってます」

「通報装置を手離さないようにね」

「家の中でも?」

 結架が驚きの目を向ける。しかし、彼は真顔で、しかつめらしく答えた。

「僕が きみから目を離すときは、家の中でも」

「それなら、一緒にいるときでも、いつも持っていないと駄目ね」

 若干の困惑を含みつつも嬉しげな笑みが弾けた。

 集一が渡したときから、それは、ポケットに入ったままだ。

「常に持っていないと意味がないからね。僕もだし、母もそうだよ。多分、父も携帯している筈だ」

 真剣な声で言うと、彼女は頷いた。

「それもそうね」

 本当は、流石に自宅内では携帯していないが。その代わり、使用人の目が常にある。この屋敷で一人きりの結架とは違う。

 後ろ髪を引かれる想いで帰っていった集一の、その表情は、心から結架を案じているものだった。

 まだ集一の気配が残る玄関に留まったまま、結架は手の中の装置を見る。

「花言葉、なんだったかしら……?」

 クリスマスローズ。別名、ヘレボルス・ニゲル。

 ヨーロッパ原産で、冬に咲く、愛らしい花。ギリシャ語で不穏当な意味を冠する名だった筈だが。思い出せない。花の図鑑が書庫にあっただろうかと考えていたとき。

 突然だった。

 照明が消え。

 口元が布で覆われ、身体を後ろに引っ張られた。

 手から落ちたキーホルダーが、床に当たった音が響く。

 清涼な──少し甘い──檸檬の薫り。

 伏臥位うつぶせにされ、のしかかる重みが胸と腹を圧迫して苦しい。冷たい木の床に頬が押しつけられる。本能的に もがくが、今度は顎を持ち上げられ、首に何かが絡んだ。

 何が起きているのか理解は出来ないが、察知した途端に押し寄せる、凄まじい恐怖。そして、混乱。

 恐慌の支配するなかで、結架の脳裡を死がよぎる。

 締められたくびから、ごきりと音が鳴った。

 それを聴いてすぐに、結架の意識は途絶えた。

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