第2場 その庇護の手が過度のものであっても
朝食を作るのも億劫に感じた結架が、珍しく陽が高くなっても寝台から下りられずにいると。
礼儀正しさを感じさせる、しかし強めの力で扉を叩く音がした。
「はい……?」
反射的に返事をしつつも、首を傾げる。
今、この家には自分しかいない。
だが、電話の呼び出し音は鳴っていない。
そして、この家の住人が内線電話での応答確認を省いて結架の寝室へ入室を求めることは、平素ないのだ。
聞き間違いだろうか。
しかし、ゆっくりと二回、響いた音は。
確かに部屋の主への呼び掛けだった。
結架は自分の身体を見下ろした。
急に寒くなったので、昨夜から、軽くはあるが厚みの多少ある、七分袖でベロア素材のスリーピングドレスに替えている。もう少し本格的に寒くなったら、さらに下に起毛素材のキャミソールを着るつもりだ。とはいえ、ガウンを羽織らなければ人前に出られない夏用のそれと違って、いま着用しているものは部屋着と言えなくはない生地とデザインだろう。
身を起こし、寝台から降りて部屋の扉を開けた。先程、少し遠慮がちな強さであろう力で叩かれた、この扉は、廊下へと出られるものだ。
そうして対面した、そこに立っていた人物に瞠目する。
「集一……? 今日は予定があったのではないの?」
心配げに、あるいは申し訳なさそうに眉を下げた彼は、結架の姿を見て吐息を放った。次の瞬間、その身体を集一が抱きすくめる。彼の鼓動が激しく乱れているのが分かって、さらに驚いた。
深い呼吸の後に、小さな掠れ声が降ってくる。
「ああ、良かった、無事で……」
「え?」
説明を求めて腕に触れると、察しの良い彼は結架を腕の中から解放する。
「きみが電話に出ないから、鞍木さんに頼んで、相馬さんに連絡してもらって玄関の鍵を開けてもらったんだ」
「えっ……?」
だが、電話機が鳴った音を聞いていない。
結架がそう言うと、集一も首を傾げた。携帯電話を取り出して、かけてみる。電話機を眺めるも、静寂が続いた。
無言のまま呼び出しを切り、今度は電話機から受話器を取り上げ、プッシュボタンを押す。すると、集一の携帯電話が鳴動した。通話は繋がるようだ。
「……呼び出し音が消音になっているのかな」
「えっ、そんな、だって」
昨日の朝は鳴ったのにと結架が呟く。
「他の部屋のもかしら」
「それは困るね」
会話しつつ、取り敢えず確かめようと居間へ行ってみる。歩きながら電話番号を入力し、画面を見て呼び出していることを確認した。
長い廊下を進んでいくと。
居間に着く前に結架が呟いた。
「あ、鳴ってるわ」
意識を集中すると、集一にも確かに聞こえた。少し先、壁越しで減衰し、音質も柔らかく変化している電子音。
「本当だね」
そのまま歩き続けて扉を開けた。電話機が鳴動し、着信を知らせるライトも点滅している。問題はないようだ。
「──ということは、結架の部屋の機器だけ鳴らないのか。修理に出してみるかい?」
すぐにでも手配し始めそうな集一の様子に、結架は目を大きくした。そして、ごく僅かな数秒間に考える。もともと自室にいるより居間や楽譜庫、練習室にいる時間のほうが多い。それに、留守番電話機能に問題がないようなら、さして懸念することもない。
「ありがとう。でも、部屋にいるときは子機を持ち込むようにするわ。だから、急がなくても大丈夫よ。お兄さまが帰ってらしたら、修理するかどうか判断なさると思うわ」
落ち着きはらって自信のある揺るぎない音調の声には、なんの不安も疑問もなかった。
それに、確かにこの家の主は堅人である。明らかな不具合で他に打つ手がないのであれば事後承諾となっても仕方ないだろう。だが、そうでないなら。あまり、彼の感情を逆撫でしかねないような でしゃばりな真似を すべきでない。
そう考えた集一は、結架が自分の携帯電話の番号を諳じられるかどうかだけ確認し、それについては引き下がった。ただ、もともと渡そうと思っていたものがある。
「結架、これを持っておいて」
ポケットから取り出したキーホルダーを手渡す。
それは、黒い箱形をしていて、表面にはクリスマスローズの絵画が装着されている。深い落ちついた色調の緑の中に浮かび上がる、白と緋色の花が美しい。上品な七宝焼。右側の下端に描かれた小さな黄金の花押は、ティアラのようにも見える蓮の花だ。
「綺麗ね。これは?」
「うん、緊急通報装置」
「えっ!?」
ただのキーホルダーに見える、手のひらにすっぽり収まるそれを、結架は凝視した。厚みこそあるものの、それも七宝焼であれば、不自然なほどではない。
集一が、結架の手の上のそれに触れた。絵が貼られた表面をスライドさせると、押しボタンが二つ並んでいる。一つには表面に突起があった。
「こっちを押すと、警備会社と僕の携帯電話に通知されて、両方を同時に一〇秒ほど押し続けると通報撤回できる。通報してから三分以内でないと通報撤回できないし、撤回したとしても確認の電話はかかってくるしで、対応の必要はあるけどね。実は、今、きみに持っていてもらいたい携帯電話の手配をしているんだけど、使ってもらえるかい?」
固辞されることを恐れる集一の抑制された声には切迫感が満ちていて、結架を案ずるあまりに出来ることは全てしたいが彼女の意思に反するような暴走は慎もうという決意が見える。緊急通報装置も携帯電話も、なかなか重たい足枷となり得る物品ではあるが、長年にわたる兄からの有無をいわさず課せられる制約に抑圧されてきた結架からすれば、微笑ましいものである。それに、兄には外部との接触手段を一番に規制されてきたのだ。つまり、携帯電話を持てば、いつでも誰にでも連絡が出来るということで。それは真逆の対応ですらある。
結架は、薄く笑みを浮かべた。
「お兄さまに見つからないようにしないとね」
以前なら罪悪感を持っただろう言葉。
「……それは、僕が干渉できる範囲から外れそうだから……きみの判断に任せることになるけど」
歯切れの悪い言い方だったが、結架は嬉しく思った。全てを管理下に置こうとはしない集一の傍でなら、呼吸が楽になる。
「それで、朝食は摂った?」
まだだと答える結架に集一は呆れつつ、あまり
「何か作らせてもらってもいいかな」
許可を求めるというよりも、誘導を目的としている口調に聴こえて、笑いがこみあげる。
「ありがとう。お願いしたいわ」
その瞬間。
漂ってきた空気に含まれた気配に振り向いた。
ほんの僅かに感じた、少し前までは馴染みすぎて気づかなかった、仄かな香り。
「……!」
硬直した結架に、集一が首を傾げた。
「結架?」
真剣な
香りの原因と思われるポプリの瓶が、窓際のチェストの上にあるのを見つけたのだ。きっと、それから薫ったのだろう。
清爽感と甘やかさが同じほどに強い、柑橘系の香り。
それは、日本に帰ってきてから、すぐにでもあった筈のもの。だが、はっきりと知覚したのは、帰国後これが初めてである。兄が長年、愛用しているコロン。母が使っていたのと同じであるらしい品。
「……いいえ、気のせいだわ」
その答えに集一は納得しなかったが、結架が背を伸ばして発しようとした言葉を飲み込んでしまったので、そのまま彼女の求めに応えることにした。
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