第5場 罪悪と破綻に堕ちて

 目を開けると、マーブル模様が渦巻くかのような揺らぎが視界に広がっており、胸苦しい不快感と、全身に軋むような痛みがあった。頭上の窓からは外の光が射しているが、あたりは薄暗く、雨音がする。そして、頭痛が酷い。稲光とともに雷が鳴るのが聞こえ、それが脳髄に響いた。暫く目を閉じ、呼吸を整える。

 嗅いだことのない臭いの濃さに嘔気が押し寄せてきて、それに慣れるのに時間を要した。

 記憶を探るよりも、現状を把握するほうが先である。落ちつくよう自分自身に心で呼びかけ続ける。そうしているうちに三半規管が正常に戻ってきて、窓硝子や外壁、屋根に叩きつける水の音が明瞭になってきた。重たい湿気にくゆる檸檬の香りと、正体の知れぬ匂い。だが、五感が正常に働きだすにつれ、動悸が起きる。

 ──なにも着ていない。

 毛布こそ身体を覆っているものの、裸身のまま横たわっている。肩と腰を固定しているのは、誰かの腕と手だ。の。身体に当たる感覚から、同じように、なにも着ていないと判ってしまう。

 

 ──だれ……?

 首を傾けて見えたものに、悲鳴が咽喉のどを切り裂いた。

「……! 結架!!」

「いやぁああっ!!」

 思いきり両腕を伸ばして突き飛ばし、毛布を引き寄せて寝台を飛び降りる。あまりのことに震えが止まらない。

「なにを……なにをしたの、お兄さま……!」

「ゆい──」

「わたしに なにをしたの!?」

 絶望が視界を真紅に染める。

 同じように一糸纏わぬ姿の兄が、この世の何より厭わしい。

 強烈な閃光。

 雷鳴が轟く。

 室内を地獄と照らす。

 交合した、証か。

 下肢の奥に、普段の生活では起こり得ない場所に、じりじりとした痛みと熱があった。

 ──うそだ、いやだ、こんなのは。

 こんなことは あってはならない。

 叫んだために呼吸が乱れる。

 耳の奥で、どくどくと脈打つ音が響いた。全身が心臓となったかのように鼓動する。弾けそうに。

 近づこうとする兄の動作を察知するなり鋭く叫ぶ。

「来ないで‼︎」

 しかし、彼は笑みを浮かべた。これまでに見たこともないほど優しげで、満ち足りた。

 戦慄が走って全身から血の気が引く。

「……もっと早くに こうなるべきだった。おまえを守れるのは、この世に俺だけ。俺ほど、おまえを愛するものはいない。おまえは俺だけの宝。他の誰にも渡さない。俺から離れるなどさせない。おまえには俺だけだ。これまでも、これからも。だから、血の絆を結ぶのは当然のことだろう。寧ろ遅すぎたくらいだ。俺たちは」

「兄妹なのよ!!」

 忌まわしい言葉を遮って絶叫する。

 感情が噴き出すとともに体が勝手に動いて、背後の壁に握った拳を叩きつけた。

 荒々しい、狂暴なまでの衝撃音。

 瞬間、空気が氷結する。

「あなたなど滅べばいい! よくも私を! 妹を!! 許さないわ、こんな……こんな……っ」

 魂の底から呪うほどに激しい憎悪。

 肌に触れる空気すら、赦せない。

 ──世界が崩壊したのに、どうして私は生きているの?

 涙が熱いと初めて知った。

「こんな私は厭ッ!!」

 茫然とする姿を睨み、そして、その向こうに見てしまった。

 あの、集一に渡された緊急通報装置が。

 破壊されていた。

 金槌を叩きつけたかのように。

 割られ、砕かれ、潰されていた。

 思わず駆け寄って、すくいあげる。

 愛らしいクリスマスローズ。その花弁に亀裂が走っていた。

 筐体きょうたいから、何本ものコードが はみ出している。

 見るも無残な ありさまだ。

 花も、自分も。

「──結架! 俺は!!」

 聞きたくない。

 怨念に染まりきった声を搾り出す。

 憤怒で煮立った両眼を向け、め付けた。

「呪われればいい。永遠に。これから、あなたが一瞬も安らぐことなく苦しみ続けるよう願うわ。どこにいても、どうなっても」

 兄は絶句した。

 驚いたようだった。

 ──こんなことをしておいて。

 もう、一顧だにしなかった。

 振り払うように身を翻して兄の寝室から飛び出す。

 薄暗い廊下を駆け抜けながら、必死に記憶を探る。考えたくない状況が現実であるから思い出せないのではと、自分を疑う恐怖に襲われた。

 現実を受け止めきれない。

 昨日とは違ってしまった自分。

 もう、望むことさえ、あってはならない。

 あの幸せを。

 喜びを。

「集一……!」

 自分の部屋の扉を施錠して、結架は床にへたりこんで身を縮めた。砕け散った心でも、まだ泣くのだと、自らを嘲りながら。

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