第8場 逡巡

 音楽のない家が快適だと思えるのは奇妙である。それなのに、出ていかなくてはという思いと、出ていきたくない気持ちが混在して、自分が どうしたいのかさえ、曖昧模糊になってくる。

 望んだのは、不動の安定と静穏。

 ただ、それだけだった。

 変化など要らない。

 維持さえできれば、贅沢な関係までは求めなかった。そう努力してきた。

 それなのに。

 無力感に襲われ、息苦しさに項垂れた。

 陽が傾いていく。ゆっくりと、けれど確実に。

「──ここの生活をどう思う?」

 不意に投げかけられた言葉に顔を上げる。穏やかで、優しさだけしか感じられない表情。現役時代には、きっと、不安で堪らないと訴える患者にも、このように接していたのだろう。

「不快ではありません。良くしてくださると感謝しています」

「でも、我が家ではない、か?」

 否定も肯定も出来なかった。

 今の自分には、確固たる自分がない。

 これまでの全てが揺らいでしまっている。

 ただ、犯した罪に後悔はない。寧ろ、誇らしくさえある。こんなに自分が霞のように薄れてしまっても。守るべき、ただ一人を、守りきったのだから。

「……きみは私たちにとって大切な肉親だ。孫の身代わりのように連れてきたが、どちらも選べはしない。きみも孫なのだからね。確かに、私は、あの子の心の負担を減らしてやりたいと思った。だが、それが、きみへ のしかかることは、望んじゃいない」

 湯呑みを包む両手が、小刻みに震えていた。

「……あなたがたは、この心臓だけ求めることも出来る」

 息を呑む音が聴こえた。

「あの子のために、きみに死ねと言えと? そんなことは出来っこない」

 苦笑を浮かべたつもりだが、巧くいかない。

 声の掠れが酷くなるだけだ。

「ただ心臓さえ健康なものに替えれば元気になれる。なのに、本人には、その認識がない。全身み衰えていると思っている」

「それだけ、手足の痺れや不自由が多いんだ。投薬で、これまでは抑えてきたんだが」

「移植の見込みは」

「残念だが提供者が現れる可能性は低い」

 医師として生きていた人間の強さが残る語調。

 患者の家族への説明は、いつも胸が引き裂かれるようだっただろうに。

「次に大きな発作が起きたら、覚悟しておかなくては」

 両目を閉じて表情を消す。

 孫への愛情と慈しみが、生存への欲を生む姿。

 自分と似たものから生じる欲なのに、決定的に違う欲。

「……まだ、選択肢に入れることさえ出来かねます」

 開かれた瞼の下にあった瞳は、優しく潤んでいた。

「それはそうだろう。無理を願っているのは、私たちのほうだ。悩ませてしまっているなら申し訳ないと思う。だが、もし、きみを家族に迎えられたら、私たちには喜びが増えるだろう」

 求めるばかりだった自分が求められる。

 嬉しく思うべきなのに、どうして。

 宝を奪われかけている、この老人が、それでも希望を見出だしているのに。

 自分には、怒りと嘆きしかない。恨み、憎悪して。破壊衝動に駆られて。

 そして、欲望を持て余す。

 ──逢いたい。

 いま、すぐに、逢えたなら。

 自分は、どういう決断を下すのだろう。

 結末を恐れて逃げ出した自分が戻ったとき。

 全ての輝かしい望みが潰えるとしたなら。

 どうすれば。

 否、そうはさせない。

 その為に、あらゆるものを利用する。

 何も無駄にはしない。

 力を蓄えよう。

 選択肢を。

 この手で定める。

 たとえ求めるほどの愛を得られなくとも。

 この愛が消えることは決して無いのだから。

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