第9場 願望

 堅人が失跡してから、二週間。

 流石に結架にも、彼を案じる気持ちが芽生えているだろう。だが、如何どうにも出来ない。打つ手がない。

 鞍木は結架の前では平然としているが、内心では、可成り焦っている。居なくなって三日もすれば、自分には何かしらの接触があるだろうと余裕に構えていたのだが、会いに来るどころか電話も手紙もない。自宅にも。事務所にも。

 鞍木の両親にも、堅人は、それなりに信頼を置いているものと思っていたが。訊いても二人の返答は「報せはない」と、寸分たがわず揃っている。

 一体、何処に身を寄せているのか。

 神経質で潔癖で、偏執の傾向が強い彼のことだ。

 ビジネスホテルなどに居るとは思えない。

 だが、生活を委ねられるほど親しい関係の者も、鞍木家のほかにろう筈もない。

 例えば結架なら。

 カヴァルリ家という大樹に雨宿りを願えば歓迎されるだろう。或いはヴェネツィア音楽院で教鞭をとっているラウラ・スカルパか、フランスで留学中に世話になった教授夫妻か。疎遠になっているとはいえ、時候の挨拶が途絶えたわけではなく、頼れば受け入れてくれるだけの関係は築けている。よって、その三つは身を寄せられる先として候補に出来る。

 しかし、堅人は。

 誰とも、頼れるほどの深い繋がりを持っていない。

 鞍木家だけが彼と交流のある唯一の人々と断言しても、間違ってはいないだろう。それほど、堅人という人間は、近しい人間と日常的に親しくすることを忌避するのだった。勿論、仕事おんがくが絡めば、そうはいかない。必要に迫られればコミュニケーションを図る。だがしかし、それも最低限度である。但し、それを埋めるかのように、共演者のプロフィールは、子どもの頃から現在まで、就いた師、学歴、コンクールの受賞歴から趣味嗜好、贔屓のスポーツチームや選手に至るまで、可能な限り調べ上げて頭に入れる。興味があるわけではないのにそこまでするのは、ともに奏でる音楽に調和を求めるが故のことだ。相手の音楽を構成するであろう要素を、普通に会話などの交流から得ようとしないのは、誉められたことではない。しかし、堅人に一般的な親交を求めるのは、酷というものだった。感覚が違いすぎる。彼にとって、他人は予測できない言動と行動が多く、理解しがたい存在だ。ただ道を歩くときにも、歩く位置、速度、歩幅、手を振る動作まで、周囲の環境や人々の位置関係まで考えて調整しているような細密な思考を常としている堅人が、自分主体で動くのが基本原則である世間と折り合いをつけるのは難しい。鞍木も、そうと理解するまで、彼とは親しめなかった。

 だが、結架は。

 抵抗なく自然に彼の選択肢に寄り添えた。

 彼女にとっては違和感が無いのか、それとも気にならないのか。

 受け入れ、認め、従った。

 昔から。

 まだ、彼が独裁的な支配者たろうとしていなかった頃。

 堅人の選ぶもの、望むものに、結架が不快感を示したことはない。

 彼女は確固たる自分を損なうことなく、兄を優先することを実に巧みにやってのけた。不満も持たずに。しなやかに、にこやかに。

 それが変容していったのは。

 フランス留学から帰って、暫くしてからか。

 或いは結架の叔母夫妻が亡くなってからか。

 それとも、イタリア留学から戻ってからか。

 確信できる時期は定められないが、少しずつ、結架の自立性が確たるものとなっていくにつれ、堅人の束縛と執着も強まっていった。

 だが、変わったのは、堅人が先のように鞍木は思う。

 折橋夫妻が焼死してからだ。

 結架を守ろうと過剰に必死になったのではないか。

 自分も子どもであったのに。

 子どもであったが故に、不器用に、守るためには閉じこめるしか手段が見つけられなかったのかもしれない。

 少女が女性になっていけば、それは、いくらなんでも成立しない。

 けれど。

 堅人の庇護欲は、却って強まった。

「おまえが俺を裏切るのか、興甫!」

 そう怒鳴った、あの怒りに満ちた絶望寸前の表情。

 ずっと三人だけで死ぬまで変わらないなんて無理だと答えた。けれど、結架が堅人を大切に思っていることは、変わらない。それを信じろと。

 慰めにもなれなかった言葉。

 ふたりだけの兄妹だからこそ。

 固執することは、お互いのためにならない。

 そう、理解して欲しかった。

 そして。

 自分のための幸せを、結架と切り離して考えて欲しかった。

 互いに枷となるな。

 よすがとはなっても、くびきにはならないでくれ。

 願ったのは、距離をおいても何かあれば駆けつけて助け合える信頼と愛情で結ばれた関係。

 どちらかが耐えるなんてことのない、双方が、ごく自然にやりたいことが出来て言いたいことが言える。それを受けとめられる、思いやりに満ちた家族でいて。

 それが叶う日が、こんなにも遠いなんて。

 胸の奥から深い吐息を放つ。

 もしかしたら。

 堅人は家出をしているわけではないのかもしれない。

 折橋邸は、住人の数からすれば広大だ。

 造りも複雑で、隣の部屋へ行くのに階段を要する経路もある。

 探したとは聞いたが。

 部屋から部屋へ移動していたら、見つけられなくても不思議はない。

 音楽堂という離れもある。

 邸内を隈無く完璧に捜索すると思うなら、大人数でなくては絶対に無理だ。

 そして、相馬夫妻へは、出入り禁止を言い付けてある。

 堅人が、こっそり生活していても、結架が気づかない可能性は。

 皆無ではない。

 ある部分では無頓着なところのある彼女なら。

 食材が減っていたり、動かした覚えの無い品が場所を変えていても。

 不思議には思っても、気のせいで済ませてしまうだろう。不審に感じるまではない筈だ。

 そして。

 堅人が結架を見張っているのだとしたら?

 全身に悪寒が走った。

 ──まさか。

 そこまではすまい。

 ──いや、でも。

 ずっと昔、結架に幼い戯れを仕掛けた少年を。手酷く撃退した堅人の姿が心によぎる。

 ──ああ、だとしても。

 もう、あの頃ほど無鉄砲ではあるまい。倫理も常識も養われている。子どもが暴れたというだけで済んだ日々は終わったのだ、とうに。

 沸き上がる不安に蓋をする。

 しかし、念のため集一に警告はしようと決意した。

 堅人が彼にとって不利益や損害を与えようと何か画策していたとしても、社会的地位の高い榊原家の力があれば防げる。彼は家の力を厭うだろうが、結架の為なら躊躇なく振るう。無防備であって良いことなど無い。

 それでも鞍木は願った。

 堅人が穏便に引き下がり、妹の幸福を祝うようになることを。寛容で優しい兄であろうと努力してくれるよう。

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