第7場 対面(1)

「あら、まあ、結架さん!」

 顔を見るなり息子には目もくれず、また紹介される間もなく相手の名前を呼んだ前のめりな様子の母に、集一は一瞬、思考停止した。

 日頃は慎ましく、いかにも良家の奥様然とした振る舞いを自然としているのが母だ。ところが今は何憚ることなく欲求のままに動いているようで、洋装であるのをいいことに大きな歩幅で足早に近寄ってきて、握手どころか両手を取って握っている。初対面だというのに、まるで以前からの知り合いであるかのように馴れ馴れしい。そもそも、一体、何時いつ、何処で結架の顔と名前を知ったのか。全くもって油断ならない。

 また、これほど興奮気味で感情的になっているのを見たことがない。周囲に居合わせた彼女の友人も知己も、画廊のスタッフらも同様らしく、皆一様に目を丸くしている。

「嬉しいわ。こんなに早く逢えるとは思っていなかったのよ。明日にでも、集一さんを急かしに行こうかしらとは考えていたのだけれど」

 冗談にも本気にも聴こえる声音である。

 息子としては本気だろうと判断できてしまい、疲労感が押し寄せてくる。それを隠して背を伸ばし、腰に力を入れた。

 取り敢えず、結架から母の意識を逸らすことにする。でないと、驚きに直立不動で固まっている結架が可愛そうでならない。

「──お母さん、こちらは結架のマネジメントを担っていらっしゃる鞍木 興甫さん。彼女にとっては勿論、僕にとっても兄同然の方です」

 作り笑いを浮かべ、後半の説明を声量で強調しつつ、優しく、しかし迅速に結架の手を母から取り戻す。そして、そっと握りながら親指の腹で撫でた。僅かに動いた指が反応して、すぐに握り返してくるのに安心する。

「はじめまして。鞍木 興甫と申します」

 礼儀正しく丁寧に一礼した鞍木に、母は柔らかな視線を向けた。

「はじめまして。集一の母をしております、榊原 弦子ふさこですわ」

 何か含むものがあるような言い方だ。

 鞍木は瞬時に二の句を告げられず、若干の戸惑いを感じたが、すぐさま体勢を整えた。

「トリノでは、いらしていたことを知らなかったとはいえ、ご挨拶が出来ずに、たいへん失礼いたしました」

 すると、弦子の笑みが深みを増す。

「まあ。いいえ、そのようなこと。あのときは本番前の大切な時期でしたでしょう。集一には、私どもが来ていることは殊更に話題に出す必要はないと申しておりました。その上、こちらの滞在期間は短かったものですから。お気遣いには及びませんわ、鞍木さん」

「そのように仰っていただけて、有り難いことです」

 互いの言葉の奥にある情報を読み取りつつ、にこやかな笑みを交わす。

 すると、結架が小さく声を上げた。全員の視線が彼女に集まる。

「あの、お初にお目にかかります。折橋 結架でございます。弦子さま。集一さんから受けとりました素敵なカメオを日本からイタリアまで お持ちくださったと聞いております。本当に、どうも有難うございました」

 少女のように純真で、誠実な情熱のこもった発言と態度に、思わず彼らは天を仰ぎそうになるのを自覚した。

「あらあらあら。全くもって律儀で清楚で細やかに気立てが良くて大変に可愛らしい方ね。それなら他人行儀な呼び方はやめて『お義母かあさま』と呼んでくれると嬉しいわ」

 珍しく両眼を光らせて身を乗り出す母を、戸惑いつつも集一が抑える。こんな無遠慮な母を見るのは初めてだ。

「お母さん」

 冷ややかな声で諌めたが、彼女は全く堪えない。であるからして、引き下がりもしない。

「あら、だって、あのカメオの意味は伝えているのでしょう。それを正しく理解なさった上で、受け取ってくれたのでしょう。であれば、それはもう、決定事項でしょう」

 驚きに目を見開いていた結架が、羞ずかしげな微笑を浮かべた。他者がいる空間であるため弦子は明確な言葉は使っていない。しかし、前提知識のある結架には、その意味するところが理解できる。

〝大切な女性に使ってもらうよう〟祖母から集一が受け継いだ、コンクシェルのカメオ。

「はい。仰有るとおりですわ、おかあさま」

 素直に呼び方を改めた結架の声に、場の空気が一気に華やぐ。無関係な筈の、ただ居合わせただけの客まで目が離せず固唾を飲んでいたらしく、当事者並みに幸福しあわせそうな微笑を浮かべ、期待をこめた視線を集一に向けてくる。いったい何故だと問うてしまいたい。

 弦子の両眼に点った光が強烈に喜びを発し、明るい声が弾んだ。

「まあ嬉しい。昔から常々娘が欲しいと願っていたのだけど、想像していたより遥かに可愛いわ。集一さん、よくぞやりました。天晴れです。こんな素晴らしい子の心を射止めるとは驚きました。我が子ながら、表面上の礼儀を取り繕うのが精一杯の冷淡な朴念仁だと、これまで貴方を侮っていましたよ」

 憮然としつつも赤面している集一が言い淀んでいる間に、弦子は結架を手招いて、応接セットのある商談室へ連れていってしまう。その道すがら、黙って成り行きを見守っていたスタッフが素早く動いて扉を開けたり、テーブルセットの椅子を引いたりと、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。見計らっていたかのように紅茶と茶菓子が運ばれていった。

 あまりに慣れ親しんだ母とは違う態度と雰囲気に気後れして動きが鈍い集一の様子を窺いつつ、鞍木も声をかけられて着席する。

 息子に構わず「あら、この銘菓は美味しくて人気で、近ごろでは手に入れるのが難しいのよ」などと結架に薦めている弦子を、余程お喜びなのでしょうねと言いたげな笑みと目つきで皆が眺めているので、正直なところ、集一は居心地が悪い。

「弦子って、はしゃぐことが出来る人だったのね」

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