第七幕
第1場 帰宅
久しぶりに立った日本の空港で、鞍木は醤油の香りを感じた。不思議なことだが、国によって、空気に独特の匂いがあると主張する者は多い。シナモンの香り、紅茶の香り、カカオの香り、珈琲の香り、花の蜜の香り──国によって異なるが──大抵は食べ物のような気がする。同意を求めたい気持ちで話しかけたが、結架は
空港にほど近い防音林の中の道で、結架は小さく嘆息を
林の整備で必要なのだろう。いくつか細い脇道の向こうに、広場のように木々が生えていない空間がある。その場所の静けさと、不思議な感覚を呼び覚ます雰囲気に重なるように、小さな呟きが聞こえた。
「秘密基地みたい……」
鞍木の記憶に懐かしい光景が
いわれてみれば、この景色は、あの林に似ているかもしれない。
「秘密基地って、あのときの?」
かつて折橋家が所有していた、山林の中腹に建っていた別荘の周囲には、あるていど整えられてはいたものの、みどり豊かな自然があった。ずっと昔は、折橋家と鞍木家が頻繁に滞在していたため、たまに子どもたちで遊んだのだ。ただし、その基地の製作に折橋家の子どもは関わっていない。枝を折ったり、鋸や金槌などの工具を使ったりして怪我をしては、楽器の演奏に差し障る。とくに外での遊びを厳しく制限されていた兄妹は、鞍木が作った秘密基地に招待されて、両眼を大きく見開いていた。
別荘から数分も歩いた距離に
秘密基地と呼ぶには目立ちすぎる場所にあるのだが、夏には生い茂った葉の中に小屋部分は ほぼ隠れる。当然ながら、折橋兄妹にとって初めての戸外の遊び場だ。ロープを使って幹を登っていくスタイルだったので、結架が一度、手を滑らせて落ち、その直後に失神したこともある。あのときは鞍木は本当に生きた心地がしなかった。頭を打ったわけではなく、驚きと恐怖感から迷走神経反射が起き、貧血状態になった所為での失神だったので、暫くして意識が戻った。左右で号泣していた兄たちを見て、まだ顔色の悪かった結架が、両手で二人の頭を撫でてくれたのを覚えている。
堅人の泣き顔など、あれ一度きりしか見たことはない。
──だいじょうぶ。わたしは、だいじょうぶよ、おにいさま。
弱々しくも凛とした声だった。守られるべき幼女こそが、兄たちを守ってくれた。そして、あの頃から、既に彼女は堅人の恐怖を和らげられる唯一の者であり、絶対の存在だっただろう。崇人に知られていたら、それこそ大変なことになっていた。大人が誰も見ていないときに起きたことだったので、三人は口を噤んだ。誰も叱られないよう。誰も責められないよう。誰も傷つかないように。
それから結架は恐怖など精神的な衝撃を受けると失神するようになり、叔母夫妻の死を知ったときなどは、かなり長い時間、意識を取り戻さなかった。それで余計に二人は結架に対しては過保護になっていったのだ。
「あのころのままだったなら、今は、どうなっていたかしら……?」
目を閉じて小さく言った結架に手を伸ばして、その頭を撫でてやる。
「
忍び笑いのような声が聴こえて、思わず安堵する。
「そうね。私も、お兄さまも、ずっと、お父さまの楽器だったわ。そうでないときの思い出が残っていないくらい」
そうは言っても、あまり両親との記憶が鮮明でない結架は、その点では幸せかもしれない。少なくとも堅人よりは。そう思ったが、鞍木は曖昧に笑って明確な言葉を避けた。
昔は田畑しかなかったという、この街で、恐らくは一番広い敷地を持つ、結架の生家に到着する。
高々と周囲を囲う鋼鉄製の門は、家人によって開かれていた。
表情を消している結架に微笑みかけ、鞍木が玄関の扉を開ける。しかし、そこに戸主の姿はない。予想が外れたことに不安が
「なんだ、あいつ。出迎えにも来ずに」
「お部屋に行くわ」
一瞬、反応に躊躇する。
「あ、ああ……。おれも行くよ」
迷いを見せない足どりで、平素よりも速い歩調で廊下を進む結架の背中を見つめているうちに、とらえどころのない焦燥めいた感情が胸に渦巻くのを自覚した。だが、どうしようもない。出来ることは、後ろに控えて支えとなろうとすることだけだ。
壁のあちこちに飾られている銅版画の題材が、楽器や道具から、西欧の神話や宗教画へと変わる。
辿りついた扉を叩いた結架は、しかし、室内からの返事を待たなかった。
「ただいま帰りました、お兄さま」
部屋に入るなり、彼女は冷静な響きで言った。
それよりもずっと熱のない音響が応える。
「そうか」
言葉だけは優しく続く。
「無事に帰宅してなによりだ」
結架は頷いたようだった。
「ありがとう、お兄さま。お変わりないようで安心したわ」
それに対する返答は無かった。
鞍木は身震いするのを堪える。
結架の言葉が無邪気からのものか、無頓着なだけか、俄には判断がつかない。
黒々とした瞳に燃える炎の青さを、彼女は、いつも素通りしてしまう。感知していないわけではないのだろうに。
晴れていても厚いカーテンを引いている彼に、あらゆる位置から弱い照明が当たっている。暗がりを嫌うくせに強い光源は厭うせいで、もともと彫りの深い顔に
金色のフルートがクロスの上に横たわる机に。ヴェネツィアン・グラスのランプが輝く。ムラーノ島の潮風を思い出した鞍木の鼻腔の奥が、むずむずとした。
「──ご苦労だったな、
飛び越えてきた視線にある、これまでどおりの冷え冷えとした信頼が、今日は痛い。それでも彼は微笑んだ。ごく自然に見えるよう、最大限に努力して。
「ただいま、堅人。充実した仕事をさせてもらって、感謝してるよ」
「成果があると?」
「とても大きく得難い成果だと思う」
すると、僅かに彼の目尻が和らいだ。
「後日に詳しく聞かせてもらおう」
これは予想どおりの言葉だった。
そして、それが辞去を促してもいることに、鞍木は気づいている。それは結架も同様で、彼女は緩やかに半分だけ向けた横顔に懇願を浮かべた。とはいえ、その瞳には諦観も含まれている。理解しているからといって全てを平然と呑み込めるわけではないのだ。
「……おれも結架くんも疲れているからね。今日は早く休んだほうが良さそうだ。これで失礼するよ」
言外に結架を早く
「ああ。気をつけてな」
彼が怒り狂っているという可能性を捨てきれていなかった二人は、その言葉に心底から安堵する。覚悟が空振りしたようにも感じられるが、それは、喜ぶべきことだ。
「結架」
「はい」
怒りも怨みも察知できないが、慈しみも感じない平淡な語調に、背中が張りつめる。
だが、言葉の内容は飽くまでも優しかった。
「夕食は下拵えも済んでいる。用意できたら内線を鳴らすから、それまで寝め」
結架は微笑みをつくった。
「ええ、わかりました。ありがとう、お兄さま。そうします」
二人して廊下に出る。誰よりも耳の良い彼の付近での会話を避け、そっと目配せし合う。互いの安寧を感謝し、
「じゃあ、明後日には来るから」
「ええ。お待ちしてます。気をつけて帰ってらして」
当たり障りのない対話だけをした。
玄関や門の鍵を結架が かける必要はない。堅人の部屋からは、鞍木は迷うことなく帰路につける。結架が持ち帰った旅行鞄も、玄関から私室へと運ばれているだろう。
その場で鞍木を見送った結架は、久し振りの自室へと向かう。緊張が解れて、直ぐにでも寝具に身を沈ませたかった。
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