第2場 反抗

 叔母夫婦の事故直後に生家へ戻ってきたとき。結架の寝室の出入り口には、記憶にない内鍵が付けられていた。不在の間に兄が備えつけたのだろうかと思ったが、それにしては螺子ねじが古びて錆びている。しかし、当時の結架は彼らの死の原因が自分にあるという悲痛の念に執らわれていて、変化に気付いたからといって、その鍵のついた理由も意味も、考える余裕はなかった。

 ただただ自身が厭わしく、消え去ってしまいたいのに死ぬことは恐ろしい。罪悪である音楽を求めてしまう浅ましさに嫌悪し、それでも慰めに焦がれて。罰されるべきだというのに許されたかった。それが自覚出来たからこそ、辛かった。

 チェンバロを弾くようになって漸く意識がそちらに向いたので、実際に作業したであろう相馬夫妻に尋ねてみると。思いもよらなかった意外な回答が得られた。

「亡くなられる直前の瑠璃架るりか奥さまに頼まれたのですよ。まだ結架お嬢さまには早いのではと申し上げたのですが、就学前に防犯意識を身につけさせたいのだと仰っておられました」

「お母さまが……」

 しかし、結架の幼少期の記憶は所々が滲んで霞み、そんな教えがあったのかどうか、思い出せない。

 とはいえ、母の愛情と配慮が有難い時は、度々あった。

 内線電話の呼び出し音が鳴って、結架は我に返る。受話器に手を伸ばし、

「はい」

応答した。

 熱のない響きの声が流れてくる。

「夕食が準備できた」

「わかりました。ありがとう、お兄さま。すぐに行きます」

 兄はいつも、結架の返事を聞くと、何も反応せずに通話を切ってしまう。レツィオーネでもない限り饒舌になることなど滅多にない彼と、芸術以外の話題で会話が弾んだこともない。元来、愛想を振りまける性質ではないのだ。

 食堂に用意されていた料理の彩りと香りに「まあ、美味しそう」と感嘆の声を上げても、無反応である。自分が作ったのならば嬉しそうにしてくれても良いだろうし、そうでなくても同意してくれるなどすれば雰囲気が和らぐだろうし、いずれにしても居心地の良さは飛躍的に改善される。これが常態で何年も暮らしてきたが、この数ヶ月の人間関係が配慮に満ちて優しく楽しかったので、この堅苦しさを苦痛に感じてしまう。

 表情を隠すためにグラスを取り上げて水を口に含んだ。そして、はっとする。

 やわらかな水に、仄かに自然なレモンの甘味と酸味がある。結架の好きなレモン水。それも、皮の苦味が出ないうちに取り出された。気づかれないかもしれないことに頓着しない優しい配慮。そして、結架のためになら、いつでも手間を惜しまない姿勢。

 昔から、兄はこうだ。

 冷淡に見えて。

 厳しく干渉して自由を制限しておいて。

 それでいて、こちらが見落としてしまっても仕方ないほどに細やかな気配りを、ごく自然なものとしている。そして、それは常に無償のもので、感謝の言葉どころか、そう認識することさえ期待していないように見えていた。見返りを求めない。望まない。ただ、ひたすら一心に。

 だから振り払えなかった。これまでは。

 過剰な庇護に息が苦しくても、この愛情の深さに、逆らう気力を抑えられてしまっていた。

 けれど、トリーノで親しくなった人々や集一との関わりで育った感覚と価値観が、もうこの生活を受け入れない。

 無償のようでいて、そうではなかったことに気づいてしまった。欲して求めた訳でもない形の愛を与えられる。それでいて、自由に物事を選択して生きる、そんな普通の生活を引き換えにしているのだと。

 いびつな家族。

 決定的に すれ違った関係。

 息苦しい愛情と束縛。

 だが、すぐにでも兄と離別して家を出て行こうとまでは思わない。まずは、理解を得られるよう努力すべきだ。そう始めたばかりでもあるのだから。

 無言で食べ進める兄の所作は迚も綺麗で、つい見惚れてしまいそうになる。結架は落ち着きを保とうと、レモン水で喉を潤した。

「お兄さま」

 返事は無かったが、彼は手を止めて結架に目を向けた。斜め前に置かれた電灯の光を浴びている所為で赤みの強い茶色に見える瞳からは、なんの感情も読み取れない。

「私、これから、お仕事を増やしていきたいと思っているの」

 そこで言葉を区切ったが、反応はない。

 期待することなく続ける。

「国内も、国外も。それとね。鞍木さんが一緒でなくても一人でも──」

「一人でも?」

 冷たい爆発が起きた。

 がしゃんと皿が鳴って、全身が強張る。鼓膜に刺さった音の攻撃的な響きが、脳髄まで震わせるようだった。

「世間知らずの、お前が? 一人でも大丈夫だと? この世の危険も人間の邪悪も知らずにいる癖に、蛮勇が過ぎる! 身をわきまえろ!」

 まだ、怒りの頂点ではない。

 ここで引き下がっては何も変えられない。

「……お兄さまこそ、世間の慈愛も人間の善良も ご存知ではないわ」

「なに?」

 反駁した結架を見つめる瞳の色が濃くなり、濃い眉が上がって、口許は不快げに歪んだ。

「私、トリーノで、本当に大勢の方々に良くしていただいたの。助けてもらって、支えてもらった。音楽だけじゃないの。人生そのものが豊かに感じられたわ。楽しくて、幸せで、こんな気持ちを、お兄さまとも分かち合いたいと思った」

 堅人が黙りこむ。

「だから、後悔しているわ。もっと早くに、、お兄さまの手を引くべきだった。そうしたら、きっとスカルパ教授とラウラとだって──」

「やめろ!!」

 両の拳が卓面に叩きつけられた。振動が皿やグラス、カトラリーを震わせる。

「過ぎ去った者のことなど、思い出さなくていい」

 その鋭い眼光は、結架を畏縮させる。しかし、強さを求めるようになった今では、屈服など出来ない。

「過ぎ去っても、絆まで消える訳じゃないでしょう。たとえ この世にもういなくとも、よすがは残っているわ。私たちのもとに。そして、ともに過ごした場所と人に。繋がりを大切に想う気持ちがあれば、離れていても、途絶えない。きっと、また逢えるもの」

 堅人が立ち上がった。椅子の脚が床を削る。

「……父の人間性も母の人柄も碌に覚えていないでいて、よくもそんなことが言えるな。尤も、鮮明に憶えていたとしたら、絆なんて疾うに消えていただろうが」

「お兄さま……⁉︎」

 あまりの言い草に結架も立ち上がった。

「どうしてそんな……!」

 堅人の表情から激情が抜ける。

 平坦な声が流れ出た。

「才能の優劣をつける目でしか子どもを見ず、自分の理想を肩代わりさせることしか存在価値を持たせようとしなかった人間の息子だからな、俺は。お前の目に歪んで見えても不思議はない」

「そんなことを言っているんじゃないわ」

 何度も首を横に振る結架に、静かな口調が宥めるように絡んで、言葉の鎖を巻こうとする。

「お前が俺の与り知らぬところで傷つけられたり穢されたり侮辱されたらと思うと、俺は生きてはいられない」

「そんなふうにいわないで」

 涙が滲む。

 悔しさからか、悲しさからか。それすらも結架には判じられない。

「俺に逆らうな、結架。今までも、これからも、穏やかで平和な暮らしを望んでいるんだろう。

 声の圧力に抗うことに必死になって、結架の自制心が限界に近づく。

 失えないのは、この生活ではなく。

 ──集一。

「でも、わたしは」

「足ることを知れば欠けなど無く満ちる」

「私は一緒に人生を歩きたい方に出逢ったわ」

 びしりと空気が凍りつく。

 しかし、結架は後悔しなかった。

「な……んと言った……? いま」

 呼吸を整えて答える。

「お兄さまに会ってほしい方がいるの。側に居るだけで私を幸せな気持ちにしてくれて、私が傍に居て幸せにしたいと望むほど素晴らしい方よ。彼だったら、きっと私たちにあるべき家族の理想を教えてくれる。喧嘩や仲違いも乗り越えて、互いを支えていけるようになるわ。負担になることも強いることもない、あるべき家族の姿を──」

 聞いたことのない音響が部屋全体に轟いた。

 そして、堅人の姿が消えた。

 蹲った彼が震えながら悲鳴を上げ、それから跳ね上がるようにして駆け出し、食堂を出て行ったのだと把握するまで、数分を要した。

「……え……?」

 暫く呆然とした結架が静寂の中で我に返り、慌てて兄の部屋の扉を叩いたが、返事は得られなかった。そして、施錠された扉は頑なに彼女を拒んだ。内線電話にも出てくれない。静まりかえった廊下で途方に暮れつつ考え抜いた結果、朝を待って鞍木に電話でたすけを求めようと決意する。

 しかし、翌朝。鞍木に連絡する前にもう一度、と行ってみた堅人の部屋から、彼は姿を消していた。

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