第10場 愛される音楽(2)
二曲目は、恋の歌の旋律を一二の変奏に発展させた、アルペッジョとパッセージが速い、難曲。
『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』
それは、決して童謡ではない、恋の歌曲。
『私が何に苦しんでいるのか、あなたに知ってほしい。
恋人がいなくて生きていける人は、いるの?
ああ、お母さん!
ひとつのしくじりが、私を、彼の腕の中に飛び込ませたの。
ああ! 愛が心を大切にするとき、人は甘い喜びを味わうのね』
このような歌詞を、小さな少年少女にも親しまれる歌詞へと変わらせる契機が、このモーツァルトの変奏曲にあったかもしれない。そう結架が呟いたのを、集一は思い出す。
ピアノの旋律が完璧なので、オーボエは追いかけるように歌う。
可憐な響き。物悲しい変調。明るく向かう最後の
乱れのない和音が止まる。
そして、三曲目。
オーボエとピアノが同時に主題を奏で出す。
明瞭な発音で流れる旋律に、勢いづけるような動きのピアノが並走していく。悲しみを振り払うように急ぎ足で。けれど、どれほど速く駆けても、心に何度も沸き起こる焦燥が歯痒い。
第一楽章の勢いを残したまま、離れてしまった過去を懐かしむ第二楽章。過ぎ去った想い出の甘さ。どこまでも優しかった、慈愛の手。もう取り戻せない、あたたかな抱擁。
モーツァルトが亡き母への思慕を込めたといわれる曲。
悲しみを、罪の意識を、慕わしい心のすべてを乗せた音楽。
ゆったりと流れる時間に寄り添う、懐古に身を委ねるよう導く響き。
艶やかな高音が優しい。
そして、早足で時が流れだす。振り返らず、けれど忘れることもなく、涙を拭って未来へと歩いていくために。
余韻が消える。
人々の拍手が二人の演奏に応えた。
「……
呟く声が届いて、リードから唇を離した集一はお辞儀した。
「ありがとうございます。本来はピアノとヴァイオリンのためのソナタと、ピアノ独奏の曲であるので、僕の出る幕ではないところもあるのですが、幸いにもオーボエでの演奏を想定してくれた編曲者の恩恵を受けることが出来て、本当に有難いことです。後でピアノ独奏の時間も設けますので、どうぞ、楽しみになさっていてください」
小さな笑いが起こった。そこに不満など微塵もない。楽しげな笑顔が並ぶだけだ。
「いやはや、君たちの響きは本当に素晴らしい」
「ええ。とても美しい演奏だわ」
コンサートホールではない私的な空間であるため、聴き手との距離が近い。集一と結架は声を揃えて謝辞を述べ、周囲に和やかな笑みが広がった。
「次は何を聴かせてくれるのかしら?」
先ほどの若い女性が声を弾ませている。
「もう一人の愛妻家、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのトリオ・ソナタを二曲。BWV五二五と、BWV五二七を続けて演奏いたします」
答えた集一に続けて結架が解説する。
「もとはオルガンの、右手パートと左手パート、そして足鍵盤パートの独立した声部で構成された作品ですが、室内楽により相応しい形式です。BWV五二五は、リコーダーとオーボエと通奏低音のために書かれたトリオ・ソナタに基づいて書かれた作品である可能性があり、オーボエの甘い響きに馴染みます」
「BWV五二七のほうは、第二楽章がフルートとヴァイオリン、チェンバロのための三重協奏曲に流用されていて、さらにモーツァルトも弦楽三重奏へ編曲しているわね」
アントニア・コレッリが、両眼に喜びを灯して言葉を挟む。
集一と結架は微笑んで頷いた。
「ええ、そのとおりです。モーツァルトはバッハから、バッハはヴィヴァルディやアルビノーニから影響を受けて学んでおり、自作にその型式や音形を取り入れて習熟理解を深めています。新しい楽器、新しい奏法。そうして変化していく価値観と文化、求められる場面と環境が広がって、その中で音楽の果たす役割も増えていき、
「魅力的なフレーズを自作でも活用したい。そうした考えを持つことは、とりわけ珍しいことではありません。また、そのフレーズの魅力を保ちつつ独自の作風に形作るという挑戦は、作品に豊かさ、多彩さを齎します。さらには、自作の音楽を、音域も音色も違う別の楽器で、それに相応しい作品とすることも、作曲家としての技量が問われるでしょう。音楽を学問としても究める。その始まりとも思えます」
アントニアの手にあるグラスが光り、氷が溶けて高い音を立てた。その熱で肯定するように。
「そうね。カンタータのシンフォニアと協奏曲、オペラのアリアと器楽曲といったように、編成も形態も異なるのに、それぞれに曲は魅力的だわ」
クラウディオ・アンティゼリが大きく首を縦に振った。
「古楽は近代曲よりも自由度が高いですからね。例えば指揮者が違うと、楽団が同じでも演奏が全く違ってきます。編成、調律、速度、装飾。差異はあっても作品の優れた本質は損なわれない」
「ジャズのように自由ね」
「あるいはそれ以上に」
集一の心と結架の心が同じだけの解放感を得られた時間。
目映いほどに煌めいて目が眩む夜が更けていき、人々の愛する音楽が次々に生み出される。
結架にとって、忘れられない夜となっていった。
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