第10場 愛される音楽(1)
私邸での演奏会ということで、午餐の席には一同とともに並んでいた二人だったが、夕暮れが近づいて応接リビングに移動した滞在客と、演奏会のためだけに来訪した招待客とが合流して会話を楽しむ間は、それぞれ演奏前の準備作業と精神統一に勤しんでいた。
楽譜の隅々まで理解し記憶すべく譜面から視線を外さない結架と、リードに水分を与えつつ楽器本体の管内の水気をスワブと羽で拭い取る集一は、程よく高まった緊張に昂っている。今朝の最後の合わせで望ましい水準に達しているものの、本番は魔境にも繋がることがあるのだ。緊張に全身が強張ってしまうのは避けるべきだが、弛みきってもいけない。身体は弛緩、心は緊張気味であるくらいが丁度良い。
オーボエと、オーボエ・ダモーレの二本を、チューナーを使って念入りに音を合わせる。集一は僅かに差し込んだリードを引き、チューナーの音程と調和させた。あとは、もう一度、演奏前にピアノとも確認すればいい。
「──結架。お待たせしました」
仕事の
「宜しくお願いします」
「はい。こちらこそ」
瞳に歓びを浮かべ、歩きだす。
部屋の隅に控えていた使用人が、なんの合図も必要とせずに、完璧に二人が必要とする動きを示した。音もなく動いて扉を開け、送り出す。結架に案内は不要だとはいえ、今日は来客が多い。外にいた若い見習いの執事が先導する廊下を並んで進む。後ろに集一の愛器を捧げ持った使用人を従えて。
いつもは壺だけが飾られているコンソールテーブルに、強香種の薔薇が美しく咲いていた。華やかさを増している屋敷全体が晴れがましい。隣に心を寄せ合う相手がいて、ともに音楽に没頭し、その恍惚に酔いしれることが出来る。そうして感じる幸福は天国的で、一度でも味わえば忘れられない。失えない。
悲痛を追い払う努力を続けたまま、結架は笑顔を意識した。今を大切にして、未来を掴み取る。居場所を選ぶため。拠り所を増やすため。頼れる
応接リビングの扉の前で、二人は同時に呼吸を整えた。
左右から二人の使用人が扉を開く。
あたたかな拍手で迎えられた。
華麗な世界に生まれ育っただろう人々が、そしてカヴァルリ家と縁の深い友人たちが、期待のこもった目を一斉に向けてくる。その笑顔が結架には眩しい。奥に鞍木の姿が見えて、安堵する。彼のすぐ横にいたロレンツォが立ち上がった。
「皆さん。素晴らしい演奏家であるシューイチとユイカの音楽を、ここでこうして分かち合える幸運を嬉しく思います。どうか楽しい時間を過ごしてください」
お辞儀してから室内を進み、彼らの笑みに応えながら、二人はピアノのほうまで歩を進めた。
一九〇一年製、バボナ材のマーブルのような木目が美しい、ベヒシュタイン黄金期の名器。創業者が亡くなる直前に完成したと言われている逸品で、長く適切に手入れされてきたため、生まれてほぼ百年の楽器とは思えないほど、鮮やかに響く。
もう一度、お辞儀をして、集一と結架はピアノの横に並んで立った。
ついてきていた使用人が、集一の側のテーブルに広げられたクロスの上に、そっと楽器を横たえる。それを横目で確認してから、集一が口を開いた。
「お集まりの皆さん。今宵、この場で演奏を聴いていただける栄誉に与れましたことを心から嬉しく思い、たいへん光栄に存じます。皆さんのお心に届くよう、精一杯の演奏に努めます」
続けて結架が、
「芸術の後援者、庇護者たるカヴァルリ家の皆さま。そして、お集まりくださった、カヴァルリ家と深い親交の絆で結ばれている皆さま。こうしてこの場にピアノ奏者として立つことができ、共に音楽を味わえることが、本当に幸せです。私も精一杯の演奏をお贈りしますので、どうかご一緒に楽しんでくださいますよう」
微笑みながら言葉を繋ぐと、再び拍手で応えられた。
「最初に演奏するのはモーツァルトのソナタ、K.四〇二です。とはいえ、彼の手によるのは第一楽章だけで、第二楽章は未完だったのをマクシミリアン・シュタードラーが補筆完成させています。バッハの重厚なフーガに慣れていると、このモーツァルトのフーガが愛らしく聴こえます」
「どちらの作曲家も愛妻家だね」
ウーゴ・ヴィアトゥーレが快活に言って自身の細君の手に唇を落とすと、周囲に軽やかな笑いが起きた。
集一が笑顔で返す。
「ええ、あなたのように。そして、いずれは僕もそうあろうと思っています」
「それはいいことだわ」
「そうだな。妻を宝と思っている男は信用できる」
「駄目よ、小父さまがた。まったくもう、また愛妻自慢が始まりそうだわ。お二人とも、演奏に入って頂戴」
熟年夫婦の会話に、年若い女性が割り込んだ。その言葉は手厳しいものの、内容は微笑ましく、口調は柔らかい。
結架の緊張は、ほぼ氷解した。つい気が緩みそうになるのを内心で
集一が後を引き取った。
「それではご自慢は次の機会にお聞かせいただくとして、しばらくはモーツァルトの音楽にお耳をお貸しください。続けて三曲、演奏しましょう。僕が愛妻自慢対決に参加が出来るようになるまで、どうか、お待ちくださいますよう」
「おお、望むところだ!」
短い笑いが室内を揺らした。
集一が視線を向けてくる。結架は胸の高鳴りをそのままに、笑みを浮かべて頷いた。ふたりの基準音を合わせてから椅子の上で姿勢を整え、指を鍵盤に沿わせて、ペダルに爪先をあてる。呼吸を揃えて。
和音の整った前奏。
同じ音型のオーボエが入ってくる。
甘く、ゆったりとした呼びかけのような旋律に、ピアノの相槌。そして発展していく会話のような展開。
この曲が作曲された動機については、明確な資料がない。しかし、妻のコンスタンツェのために作られたという説が濃厚だ。悪妻説が根強い彼女だが、少なくともモーツァルトはコンスタンツェを尊重し、大切にしている。八年間の結婚生活で六回も妊娠出産をし、最後の二年に脚を悪くした彼女を湯治に送り出し、費用の送金と手紙を欠かさなかった。そんな夫の死後、相当な貧困に直面したにもかかわらず、彼女は彼の自筆譜を出来るだけ長く手元に残そうとした。再婚した相手も、モーツァルトの音楽を愛し、理解しようと努めるような男性だった。初めは姉であるアロイジアに恋焦がれていたモーツァルトの妻になって、これだけの関係を築けた証明を残しているのだ。コンスタンツェが悪妻なわけがない。集一も結架も、そう考えている。
未完成の作品を完成させて売り物にする。それは、残された子どもたちを養うために当然の行動だ。だが、既にある自筆譜を売るほうが早くて簡単なのに、そうしなかったのは、何故か。ただ、その場だけの金銭に換えることを渋っただけか? それとも、突然の別れに苦しみ、彼のものを傍に留めておきたかったのか? 彼の遺した作品を未完のまま日の目を見させないことが悲しすぎただけか?
その答えは、きっと、もう誰にも分からないだろう。
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